と言うエントリーを読んで、同情も反発も共感も特になかったんだけど、とても不思議だと感じた。
このエントリーへの私のブクマは
ってやつで、私が最も疑問を感じたのは、増田の人がいう所の全てを受け入れてくれる存在への疑問だ。
あまり言及される事がないように思うけど、いじめには二つの側面があるというのは、もう少し周知してもいいんじゃないかと思っている。
いじめられる原因には、周りに問題がある場合と本人に原因がある場合があという事だ。
気が弱かったり断れない性格につけ込まれるのは、明らかに周りに問題があるけれど、まわりを馬鹿にした態度を取ったりみんなで決めたルールを俺様ルールで守らないのは、本人に問題があるんじゃないかと思う。
少なくとも、全てをいじめで一括りにするんじゃなくて、いじめの解像度を上げないと、現実的な対応は難しいと思っている。
とまあ、私の個人的ないじめ観はそんな感じだけど、今問題になっているのは、小中学校でのいじめが原因で自己評価が下がったという話だ。
んで、ループしちゃうんだけど、私個人としては、自己評価が高い状態ってのがいまひとつ理解できないんだよね。
どうして無条件で自分を受け入れてくれる人が居ると思えるのだろうか?
ミッション系の幼稚園に通って、何なら教会学校にまで通っていた私はには、自分が無疵とは到底思えなくて(何しろ神様は私の内心を含めて全てをご存知だったから)、私は何らかの形で悔い改めないと(≒結果を出さないと)、簡単に人(=他者)からは受け入れられないと思っていた。
信仰上の理由を別にしても、私には(たぶん多くの人にとって)無条件であるがままの自分を受け入れてくれる存在というのは、少なくとも、物心ついてからはいない。
もっと小さい頃にはそれはお母さんだったりするのかもしれないけど、記憶にある範囲に限定するなら、親兄弟は元より一緒に遊んでいた同じような年齢の子供でも譲歩なり契約なりはしたように思う。
そして、それは普通の事じゃないかとも思う。
親は、悪い事をすれば怒るし、怒られそうな事をしたなら露見がしないようにビビるし、小さい頃から一緒だった兄弟だって不当な扱いを受ければ怒るし、ズルや相手が嫌がる事をすれば嫌われる。
他者とのコミュニケーションは、物心ついた時には嫌でも始まってしまうので、小中学校以前から好むと好まざるに関わらず始まっている。
増田が嘘を言っているのと言う話ではなく、単にいじめられたからでは具体性がなさすぎて、それがコミュニケーションにどう影響したのかが分からない。
つまり、増田がいじめと言うものが、私がいじめの直接的な被害者になった事がないから理解できないのか、逆に増田の被害者意識が強すぎて子供の間ではよくある諍いをいじめと認識してしまったのかの区別がつかないのだ。
巷では、当人がいじめと感じたならそれはいじめである、みたいな言説が流通しているみたいだけど、少なくとも私はそれは違うと思っている。
自称傷つきやすい人の認識にお付き合いすると、傷ついた者勝ちになってしまって、がんばって耐えたり改善した人の行為はなかったことになってしまうんじゃない?
いじめとひとくくりにするんじゃなくて、理解を深めてお互いに譲歩する方がような場面って特に子供の場合だと少なくないと思う(残念ながら教師の認識と力量に寄るところはかなりあるのは認めるけど)。
少なくとも、状況がある程度明らかじゃない状態でいじめ認定は、やったとされる側にもやられたとされる側にもメリットははないと思っている。
一方で、明らかな犯罪行為と思えるものまで「いじめ」に矮小化されているようにも思える。
たぶん今必要なのは、いじめと呼ばれるもののの実態をより明らかにして、より具体的なラインを設ける事なんじゃないかと思っている。
ごちゃごちゃいじめに関する私見を書いたけど、私は、小中学校でのいじめが原因で自己評価が下がったと言うのはイマイチ言葉が足りていないように感じている。
増田には悪いけど、自己評価が下がっている人が、自分の全てを受け入れてくれる人が存在すると思えることが不思議でしょうがないのだ。
せめて、なぜ恋愛対象は自分の全てを受け入れてくれる人だと思ったのか、その理路が知りたい。