どうしよう?

推奨されたのではてなダイアリーからインポートした

第Ⅱ部 パーソナリティ障害のタイプと対処

Kurilyn2004-07-10

パーソナリティ障害を持つ者は、の根本的な安心感の不足や、満たされない承認欲求を補うために、独特の偏った行動様式を発達させる。それは、彼らの生存を賭けた戦いの中で磨かれたものであるだけに、非常に魅力的な側面と、それゆけ危険な側面を併せ持っている。
ここでは、それぞれのパーソナリティ障害のタイプについて、もう少し踏み込んで論じてみたい。
各章ごとに、米国精神医学会の診断基準であるDSM−Ⅳから抜粋した、タイプごとの基準を掲載した。また巻末にはDSM−Ⅳに基づいて作成した自己診断シートが添えてあるので、活用していただきたい。手軽に大まかな傾向を把握できると思う。あなた自身や身近な人が、どれかのタイプに当てはまる場合もあるだろう。その場合も、慌てるには及ばない。こうした傾向が極端で、実際の日常生活や社会生活に大きな支障が生じている場合にのみ、病的なパーソナリティ障害といえるのである(三一ページ「パーソナリティ障害の全般的診断基準」参照)。また、先にも述べたように、そうした傾向が一時的でなく青年期または成人早期から続いていて、他の疾患や薬物の影響で起きていないことも診断の条件となる。
本書では、適応上差し支えない範囲のものを、単に「パーソナリティ」、病的レベルのものを「パーソナリティ障害」として区別した。
病的レベルではないが、傾向として当てはまるなという場合も、自分自身の特性を知っておくことは、とても重要だ。それは、自分が陥りやすいワナや破綻しやすい状況を予測する手がかりとなり、それを予め知ることによって、取り返しのつかない失敗や発病を予防することができる。
中には、二つ、三つの診断基準に該当したという人もいるだろう。その場合も、特にショックを受ける必要はない。パーソナリティにしろ、パーソナリティ障害にしろ、一つの傾向にのみ限定されるということは、むしろ稀である。たいていは、二つか三つの傾向が同居していることが多い。中核的なパーソナリティや脇役的なパーソナリティが、前景に出たり、背景に引っ込んだりするのである。「性格は変わらない」という一般に信じられている事実とは裏腹に、年齢や環境によって、パーソナリティは、かなり変動することがわかっているが、自分の中にある、いくつかの要素を知っておくことは、自分の多面性を理解することにつながるだろう。
また本書で力を注いだのは、周囲にそういう人がいる場合の接し方や、自分自身で克服していく場合の指針について、できるだけ現実に活かせる形で、ポイントや避けるべきことなどについて具体的なアドバイスを記した点である。それあ、臨床的な経験から得た知恵である。参考にしてほしい。

第3章 愛を貪る人々――境界性パーソナリティ障害

特徴と背景

境界性とは、何の「境界」なのか?



境界性パーソナリティ障害

対人関係、自己像、感情の不安定および著しい衝動性の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる、以下のうち5つ(またはそれ以上)によって示される。

  1. 現実に、または想像の中で見捨てられることを避けようとするなりふりかまわない努力
    • 注:基準5で取り上げられる自殺行為または自傷行為は含めないこと
  2. 理想化とこき下ろしとの両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる、不安定で激しい対人様式
  3. 同一性障害:著明で持続的な不安定な自己像または自己感
  4. 自己を傷つける可能性のある衝動性で、少なくとも2つの領域にわたるもの(例:浪費、性行為、物質乱用、無謀な運転、むちゃ食い)
    • 注:基準5で取り上げられる自殺行為または自傷行為は含めないこと
  5. 自殺の行動、そぶり、脅し、または自傷行為の繰り返し
  6. 顕著な気分反応性による感情不安定性(例:通常は2〜3時間持続し、2〜3日以上持続することはまれな、エピソード的に起こる強い不快気分、いらだたしさ、または不安)
  7. 慢性的な空虚感
  8. 不適切で激しい怒り、または怒りの制御の困難(例:しばしばかんしゃくを起こす、いつも怒っている、取っ組み合いの喧嘩を繰り返す)
  9. 一過性のストレス関連性の妄想様観念または重篤な解離性症状

境界性パーソナリティ障害は、近年急速に市民権を得たパーソナリティ障害の代表的なものの一つである。「境界性人格障害」とか「ボーダーライン・パーソナリティ」といった言葉を、一般の方もよく耳にするようになったと思う。これは、まさにパーソナリティ障害が身近なものとして押し寄せてきていることを示しているが、同時に、パーソナリティ障害に対する認識が徐々に深まり、こまで、治療の対象外だったパーソナリティの問題が、ようやく治療的に扱われ始めたことを意味している。
境界(ボーダーライン)状態について、最初に詳しい記載を行ったのは、アメリカの精神科医ナイトだったが、既に述べているように、カーンバーグが、それを「境界性パーソナリティ構造」として理論化した。ナイトの「境界状態」も、カーンバーグの「境界性パーソナリティ構造」も、精神病レベルと神経症レベルの「境界」という、かなり広い対象をさすものであった。
現在、境界性パーソナリティ障害は、ずっと狭い意味で定義されているが、かつての名残は、今もすっかりなくなったわけではなく、「境界性」と診断されているパーソナリティ障害には、他のタイプのパーソナリティ障害が含まれていることもよくある。治療者によっては、対処が困難なパーソナリティ障害を、何でもかんでも、「境界性」と診断するような乱用もあり、さらに混乱を深めている。
専門化でさえ、そういう状況である。一般の方が理解しにくいのも無理はない。それに、まだ余りなじみがないという方もおられるだろう。どういうものであるかを、できるだけリアルにイメージしていただくために、一般的な説明よりも、まず具体的なケースを見ていただこうと思う。
二つのケースを呈示するが、一つは一般の医療機関の外来を訪れたケースであり、もう一つは、非行のため施設に送られたケースである。

「死にたい虫」を飼う女子大生

外来にやってきた二十一歳の女子が臭い・A子は、ひどく憂鬱そうな顔をしていた。やる気が出ず、何をするのも空しく感じるという。「生きているのが厭だ」「自分に愛想が尽きた」「存在していたくない」――彼女の口から際限なく出てくるのは、自分に対する否定的な思いと、死を願う言葉ばかりである。身の回りのことも、ほとんどできず、彼氏にしてもらっている。だが、ずっと落ち込んでいるのかというとそうでもない。クラブに出かけたり、買い物に出かけているときは、別人のように元気である。
やってくるたびに、元気だったり落ち込んでいたり、揺れ動く。一人でいるのが苦手だとい、彼氏に全面的に頼っている一方で、彼氏とそろそろ別れたいと口にしたりする。クラブで知り合った男性と浮気をしてしまい、そのことで、また自分を責め、落ち込む。その一方で、彼氏が少し冷たい素振りを見せただけで、今度は捨てられると不安になって、大量に睡眠薬を飲んで自殺意企図した。その後、徐々に安定してからも、時々死にたくなるなると口にしていた。A子は、それを、死にたい虫が疼き出すのだといっていた。
家庭は裕福で、たっぷりと仕送りを受けている。家族から虐待を受けた形跡もない。何不自由なく育ったはずだったが、何が不満なのか見当がつかないと、付き添ってか父親は首をかしげた。しかし、A子に付き添ってやってくるのが、母親でなく、いつも父親だという点が気になっていた。
聞くと、小さい頃から父親っ子だったのだという。だが、やがて明らかになったのは、A子が母親に対して、強い不満とこだわりを持っているということだった。
母親は少し体が弱い上に、精神的に子供っぽいところがあって、そのため、込み入った問題は母親にいうと過剰反応するので、父親に相談するようになっていた。それは仕方ないと思ってやってきていたのだが、高校生の頃から、母親といるとすごくイライラするようになったという。
彼女がこういう状態になってから、少し気を遣ってくれるようになったが、それが余計、腹立たしく思えるのだという。

「見せかけの優しさでもほしい」少女

覚醒剤と売春で、施設に送られてきた十八歳の少女、B菜は、まだ乳飲み子のとき、母親が愛人と駆け落ちしたため、父親と残された。その父親もアルコール依存症ぎみで、まともに養育されず、三歳のとき、祖父母に預けられる。だが、祖父は粗暴な人で、懐かない彼女に、しばしば虐待を加えたため、彼女は家出を繰り返すようになる。母親は気まぐれに現れるが、また近いうちに来るよとの約束が守られたためしはない。
中学時代から、窃盗、無免許運転、シンナー、覚醒剤などの非行が始まり、児童自立支援施設に入れられたが、そこを飛び出して、性風俗店を転々とする。テレクラで知り合った数人の男性と援助交際し、そのうちの一人と同棲するが、その男性に金がいるといわれて、ファッションヘルスで働く。だが、男は彼女の稼いだお金を、他の女と遊ぶのに遣っていたことがわかり自殺企図。結局、その彼氏とは分かれた。そのショックもあって、テレクラで知り合った別の男性と覚醒剤の使用にのめり込むようになる。些細なケンカでも、すぐに自殺企図を繰り返すようになる。
少年院に送られてきたときは、身も心もボロボの状態であった。自分に向けられる些細な関心や好意でも、有頂天になるほど喜ぶ一方、少しでも素っ気なくされると、たちまち落ち込んで、死ぬことを考える。「見せかけとわかっていてもいい。優しくされたい」と語った本人の言葉が、彼女が抱えている深い愛情飢餓を物語っていた。

最高と最低を往復する

境界性パーソナリティ障害(BPD)の特徴は、一言でいうならば、両極端の間をめまぐるしく変動するということである。それは、気分と対人関係において、顕著に見られる。
昨日は最高にハッピーだったのに、今日は世界の終わりのようなどん底の気分ということが、死始終起こるのである。些細なことで傷つくと、あっという間に、気分が最高から最低に変わってしまう。
「うつ」になると、すべてが無意味に思え、自分が生きる価値のない存在として感じられる。絶望感や激しい自己嫌悪から、自己破壊衝動に囚われることもある。
だが、そうした深い「うつ状態」も、持続的ではなく、間欠性であるのが、境界性パーソナリティ障害の特徴である。巨視的(マクロ)には長引いているように見える場合も、もっと細かく見ると、合間に青空が覗いていることがわかる。A子の場合もそうだが、「うつ状態」でも、土砂降りがずっと続く「うつ病」とは違っている。むしろ、熱帯のスコールに近いといえるかもしれない。
こうした両極端を揺れ動く傾向は、対人関係にも見られる。境界性パーソナリティ障害の人は、自分を支え、愛情飢餓を癒してくれる人を常に求めている。これはという人物に出会うや、相手に対する期待は急速に高まり、この人こそ、自分が求めていた人物だという思いを膨らます。極度に理想化したり、万能な存在であるように思い込む。あるいは、母親や父親の代理を相手に求め、どんどん依存を深めていく。
だが、そんな関係が長続きしないことは目に見えている。相手が支えきれなくなり、過大な期待の大きさに尻込みしたり、もう飽き飽きだという態度をとると、見捨てられるのではないかという不安に取りつかれて、必死にしがみつこうとしたり、関心を引く行動に走る。それで一時的に相手をつなぎとめることに成功することもあるが、余計相手が引いてしまうと、期待が大きかった分、当人は激しい失望と同時に、裏切られたという怒りを覚える。
その反動は激しい。言葉による攻撃だけではすまずに、相手を困らせようとする行動に出ることもある。それは、それに相手を怖気づかせ、後味の悪い幕切れへと向かわせる。
こうした対人関係のパターンを繰り返す中で、本人も周囲も傷つき疲弊していきやすい。

自殺企図と心理的コントロール

境界性パーソナリティ障害の人の行動と情緒面における特徴は、上に述べたように、「両極端に揺れ動く」ことである。
そうした不安定性の根底にあるのは、深い愛情飢餓感と依存対象に見捨てられまいとする心理である。そうした心理が、さまざまな有害な行動化を起こし、次第に周囲は心理的にコントロールされることになる。「腫れ物に触る」ような状況になってしまうのである。
その最たるものが、自傷行為や自殺企図である。自殺企図とそれによる心理的コントロールは、境界性パーソナリティ障害を語る上で、欠くことのできない重要な特徴である。
境界性パーソナリティ障害が、治療を受けることになるきっかけは、こうした自殺企図が最初であることが多い。それ以外には、しばしば随伴するうつ状態パニック障害、節食障害、身体表現性障害、薬物乱用なども医療的介入のきっかけとなる。
命を直接危険にさらす自殺企図は、大きな心理的インパクトを持つがゆえに、周囲を激しく揺さぶる。多くの場合、本人に対して拒否的だったり、否定的だった者も、「本当に死んだら」という不安に駆られて、一時的に受容的となり、愛情や関心を注ぐことになる。
だが、本人が元気になると、いつまでも機嫌を取ったり、チヤホヤしてはもらえない。すると、また同じことを繰り返す。また周囲の者は動揺する。こうして、愛情と命を天秤にかける危険なバクチが、繰り返されることになる。
最初はやきもきした周囲も、度重なる自殺企図に、次第に、「またか」という溜め息しか出さなくなる。「死ぬなら、死んでくれ」と突き放されて、立ち直るケースも稀にあるが、周囲の反応が鈍ってくると、ますます絶望的な自己アピールにのめり込み、不幸な結末を迎えるということも起きるのである。

見捨てられ抑うつと自己否定感

自殺企図や自傷行為に関しては、周囲の者を振り回すための「芝居」ではないかという疑念が生じやすい。本当は死ぬつもりなどないのに、死ぬ真似をして、周りを慌てさせているのではないかという疑いの目である。
境界性パーソナリティ障害の自殺企図や自傷行為には、確かに、周囲に向けたアピールという側面があることは事実だ。ことに、後で述べる演技性パーソナリティ障害がベースにあるような場合では、その傾向が強い。だが、そうしたケースでさえ、周囲へのアピールのための「狂言」と単純に考えることは危険であり、事実を見誤る。その背後には、しばしば激しい自己破壊衝動を秘めているのである。
中核的な境界性パーソナリティ障害となると、自己破壊衝動は、さらに根深く、激しいもので、自分という存在を跡形もなく消し去ることを、心の底から望んでいることさえある。それが「うつ病」といった病気によって引き起こされたものでないだけに、いっそう対処が困難なことも多い。
リストカットという言葉では収まらない動脈や神経まで切断したケースや、上腕から前腕にまで三十数針にわたって包丁で切り裂いたケース、中には、頚動脈を切って大量出血したケースもある。
その場合、繰り返される自殺企図は、「芝居」などではなく、一種の躊躇い傷と考えたほうがよい。あとちょっと、あとちょっとと、にじり寄るように死に近づいていくのだ。彼らにとって、生きていくことは、当たり前な選択ではない。いつも綱渡りのように、ぎりぎりの選択をしながら、どうにか生き続けているのである。その幸運がいつ終わるかはわからない。
なぜ、彼らにとって、生きることがそれほど頼りないものでしかないのか。自らの肉体を、命を、惜しげもなく破壊してしまう衝動は、どこから来ているのだろうか。それを考えたとき、境界性パーソナリティ障害のもう一つの重要な心理的特性が浮かび上がる。それは、彼らが、「深い自己否定感を抱いている」ということである。
そうした自己否定感は、しばしば、薬物乱用や性的な無軌道、命知らずな行動、窃盗のような触法行為に走らせることもある。自分を値打ちのない存在と思っているから、自分をとても安っぽく扱ってしまうのだ。少しでも優しい言葉をかけてくれる存在がいれば、あっさり体を許してしまったり、後先考えずに結婚してしまったりする。
境界性パーソナリティ障害の人は、そうした自己否定感や見捨てられ感のために、心に空虚を感じたり、気分が沈みやすい。それを防ぐために、常に自分を紛らわす刺激剤を必要とする。恋愛であれ、セックスであれ、薬物であれ、自傷行為であれ、万引きであれ、ハラハラドキドキすることが、彼らの気分を高揚させ、落ち込みや空虚感から救ってくれるのだ。境界性パーソナリティ障害の人が、損得勘定からは、到底割りに合わないような行動に走ってしまうのは、そのためである。
境界性パーソナリティ障害の人は、自分が嫌いである。自分という存在を、つまらない、劣った存在と過小に評価するばかりか、しばしば、汚らわしい、醜い、情けない、存在する価値のないものと考えている。こうした深い自己否定、どうしてもたらされたのだろうか。いうまでもなく、それは生まれつきのものではなく、彼らの生活史の中で植えつけられてきたものである。そうした自己否定感の形成に、大きく関与しているのが、親との関係である。親をめぐる兄弟との関係が絡んでいる場合もある。

根っこには親へのこだわり

境界性パーソナリティ障害の人は、例外なく、親に対する深いこだわりを持っている。親に愛され、適切な保護と養育を受けて育った者は、年とともに親を卒業し、精神的にも、社会的にも自立への向かう。親は、かつては自分を守ってくれる何よりも大切な存在であったが、その重要性は成長とともに色あせ、心の中に親が占める割合は、年々小さくなっていく。それが本来なのだ。親は、幼い頃大切にした縫いぐるみのように、子供にとって、懐かしいが古ぼけた、支配力を失ったものとなる。それが、自然な成長の結果なのである。
だが、何かの事情で、適切な愛情や養育、保護が与えられないと、子供はうまく親を卒業することができない。いつまでも、親を求め続けたり、こだわり続けるということが起きる。逆にいえば、子供の心に親が特別な位置を占め続けるということは、子供時代に何か格別の事情があったということだ。
必要な時期に十分満たされないと、その段階がいつまでも続いてしまう。あるいは、逆に適切な時期に切り離されないと、巣立ちの過程が損なわれてしまうこともある。いずれにしろ、子供の成長にとって、ほどよい時期に、必要な課題を行うことが大切なのである。
その意味では、境界性パーソナリティ障害の人は、うまく親を卒業できていないという共通点を持つ。これは、他のパーソナリティ障害に共通することでもあるが、境界性パーソナリティ障害の人により顕著で、しかも親へのこだわりが前面に出てくるところが特徴的である。彼らは、かなりの年齢になっても、親へのこだわりを引きずり続けるのである。
その理由は上に述べたことから明らかだろう。必要なときに、親に十分な愛情と保護を与えてもらえなかった時期があるのだ。
生活史、養育暦を丹念に紐解くと、そうした時期の存在が明らかになる。病気、死亡、離婚などによる親の不在、さらには、それに代わる養育者がうまく機能しなかったこと、また、両親そろっていても夫婦間の愛情に問題がある場合、それらは、当然子供の養育に反映される。配偶者に対する不満や苛立ちは、子育てに必要とされる全身全霊を捧げた献身を困難にする。上の空の母親やめそめそしている母親、自信のない母親に接し続けることは、子供の中に安心感を育むことを妨げる。親のほうが自分に夢中だったり、自分のことで精一杯の場合、幼い時代に何よりも必要な無条件な愛情を与えられにくくしてしまう。
先に上げた二つのケースも、このことは当てはまる。どちらの母親も、子供に十分な愛情を注ぐだけの気持ちの余裕を持てなかったのである。自分の苦しさのため、子供の気持ちよりも自分の気持ちのほうを優先させてしまっていたといえる。
B菜のケースのように、子供時代、適切な愛情や世話を十分に与えられず、それどころか、暴力や性的は虐待によって、歪められ、玩具のように扱われた子供たちは無論のこと、最近では、A子のように、一見恵まれたごく普通の家庭の子が、重症の境界性パーソナリティ障害に陥ることが目立って増加している。だが、一歩足を踏み入れると、そこには、子供がおかれた寒寒とした状況が見えてくる。物質的な豊かさや、外面的な体裁では測れない、子供のおかれた過酷な心理状況を、自分のことや自分の思いに夢中な親のほうは、なかなか気づきにくいのである。
こうしたケースでは、たいてい子供の頃は、ずっと手のかからない、しっかり者だったり、良い子だったのに、この病気になってから、全く逆転して、親を求め続け、困らせ続けるというパターンが目につく。
甘えん坊だったり、病弱だったり、その他さまざまな理由で、母親の愛情をほしいままにしていた同胞の存在が関係していることも多い。ずっと遠慮し、我慢していたのを取り戻すかのように、あるいは実際にそう宣言して、母親の愛情を貪ろうとする。

『17歳のカルテ』とウィノナ・ライダー

三、四年前に、『17歳のカルテ』という映画がヒットし、注目を集めた。主演は、『シザーハンズ』や『若草物語』でも好演し、カルト的人気を誇るウィノナ・ライダーである。ウィノナの演じる『17歳のカルテ』のヒロインは、境界性パーソナリティ障害の診断で、病因に連れてこられた少女である。少女とスタッフや同じ年頃の入院患者とのやり取りが、丁寧に描かれていく。
少女は不安定に気分が変わり、急に落ち込んで自殺企図したかと思えば、奇妙に快活に振舞う。一体、どっちが本当の自分なのか、本人にもわからない。激しく誰かを求めるかと思えば、がらっと態度を変えて、拒み出す。親身に世話をしてくれている看護スタッフを試すように、性的に誘惑したり、真夜中に乱痴気騒ぎを引き起こして、周囲を振り回す。
とうとう、知り合った患者と病因を抜け出すのだが、一緒に離院した患者はあっけなく自殺してしまう……。その後病院に戻った彼女は、やがて落ち着いて退院していく。本当に自分は病気だったのかと疑問を抱きながら……。
というストーリーなのだが、境界性パーソナリティ障害というものの性格の一面を、言い当てている。
それは、若者がかかる麻疹(はしか)のようなものでまるのだ。その時期、子供時代に受けた傷や毒が、膿となって噴き出してくる。自分でもどうしてそんなふうになるのかわからないような変動と破壊的な行動に駆り立てられる。だた、すべては、子供時代の毒を吐き出すために必要な段階なのだ。
そして、ひとしきり激しく荒れ狂い、周囲を散々てこずらせると、いつとはなしに段々と落ち着いていく。傷が深ければ、それだけ長引くだろうし、その期間はつらいものになるが、この疾風怒濤の時期は、いつまでも続くわけではない。ただし、この時期をどんなふうに乗り切るかが、後の人生にも影響してくる。
ヒロインを演じたウィノナ・ライダー自身、精神科での治療を受けた経験があり、伝えられるエピソードや発言から推測すると、パーソナリティ障害的な側面を持つようだ。少し前にも、彼女が万引きをして逮捕されたことが報じられて、衝撃を与えた。
彼女の特異な生育暦も見逃せないだろう。彼女の両親はヒッピーのカップルで、実際、彼女もヒッピーたちが営むコミューンで、十歳まで過ごしている。それから、教育を受けるため、普通の学校に通い出したものの、いじめを受け不登校になってしまったという。
そんなウィノナが社会との接点を見出したのが、演劇スクールだった。それがきっかけとなって、十四歳で映画デビュー、スターへの道を歩むことになった。こうした華やかな成功の陰には、癒されきれないパーソナリティの問題が、まだ引きずられているのであろうが、また、それが彼女の危うい魅力だともいえる。

なぜ近年急増したのか

例として挙げたケースはいずれも女性であったが、境界性パーソナリティ障害は女性に多くみられ、男性の約三倍の頻度である。アメリカのデータでは、全人口のおよそ二%、精神科クリニック通院患者の約十%に認められるが、日本もその水準に近づきつつある。
境界性パーソナリティ障害の急速な増加の背景について、いろいろな要因が指摘されている。その中で、もっとも強調それてきたのは、やはり母親との関係についてであり、父親の存在が希薄化していることも挙げられてきた。
実際のケースを数多く見ていくと、すべてのケースについて共通していえることは、父親か母親かということより、必要な愛情が適切に注がれなかったということである。
では、昔の親より、今の親は子育てが下手になったのだろうか。その答えは、ノーだと思いたい。今も昔も親は子供を必死に育てている。物質的に豊になった分、時間や労力を子育てに割けるはずである。ただ、そうでないことを示唆する証拠は少なからずある。
まず、今の親は、家事労働からは解放されたが、子育て以外にもたくさんしなければならないことや、したいことを抱えている。ろくろく娯楽もなかった時代には、家族との関係は、もっと濃密で、向かい合うものだった。だが、今は、親の側も、自分の楽しみや自己実現のことを考えなければならない。
子供たちが無条件に、すべてを愛されたいと望むことは、次第に高望みになりつつある。親は、愛情や手をかける代わりに、さまざまな代替物を与えることですます。そこで起こっていることは、子育ての希薄化であり、空疎化である。
子育てを楽しまなければならないような誤解もある。子育ての楽しくない部分は親を苛立たせ、子供を邪魔者のように感じることさえある。親自身が、子供のように楽しみたいと思っている現代は、子供にとっては、受難の時代といえないだろうか。
一方で、子育てに熱中しすぎる弊害も存在する。そうした場合、親は自分の理想の我が子を育てることに、夢中になっている。親が見ているのは、目の前の我が子ではなく、親の願望や期待通りに、夢を成し遂げる理想の我が子である。親側の自己愛の満足を押しつけられた子供は憐れである。何万人かに一人、イチロー五嶋みどりのような成功者も生まれるだろうが、それは、才能や幸運に恵まれた一握りのケースである。その陰には、親の期待に押し潰された、数え切れない子供たちがいるのである。こうした期待の強要は、一つの虐待であり、しばしば深刻な結果を後に引き起こす。
毎日のように報道される幼児及び児童虐待、それが氷山の一角だと考えると、親たちの世代に、子供を育て、守る上での、重篤な欠陥が生じているといわざるをえない。
さらに、こうした状況による弊害を、戦後急速に進んできた核家族化、地域社会の解体が、いっそう強めている。かつては、同居していた祖父母や叔父叔母が、行きすぎた子育てに対しては異議申したてを行い、掣肘(せいちゅう)を加えた。また、近所の目も、今より家庭の内部にまで注がれていた。
それは、非常に煩わしくはあったが、一定の監視装置としての役割を果たしていた。少なくとも、折檻して殺してしまうというような悲劇は、起こりにくかった。
だが、今日の核家族化した家庭は、一種の密室である。そこには、親と子しか存在せず、子供の命運はすべて、親に委ねられているのだ。親による悪影響を緩衝するものは、ほとんど存在せず、子供はもろにかぶってしまう。親はある意味で、子供に対して独裁者のような存在となってしまうのである。
親はいつも精神的に安定しているとは限らない。親のイライラやストレスは、子供に波及せざるをえない。必要以上に激しく叱る親を咎め、逃げ場を提供してくれる存在もいないのである。こうした密室での拘束された環境は、持続的な外傷を生じやすい。境界性パーソナリティ障害の急増には、こうした時代背景が深く関わっていると思う。

接し方のコツ

変わらないことが最大のささえ

境界性パーソナリティ障害の人に接する場合、常に心におくべき大切なことは、変わらないことが何よりも支えになるということである。境界性パーソナリティ障害の人は、気分においても、周囲への態度においても、めまぐるしく変化しやすい。すごく気分がよいときは、周りの人間のこともすばらしい存在のように感じるが、思い通りにならないことが生じた途端に、気分は最悪、怒りを露にし、非難を始めるということになりかねない。
大切なのは、いいときも、悪い時もできるだけ一定の態度で接するということだ。一緒に一喜一憂しすぎたり、同情したり、本人のペースに合わせて、盛り上がりすぎると、たちまち本人の気分の渦に飲み込まれてしまう。むしろ、本人の気分のベクトルを打ち消す方向に、冷静な視点で言葉をかけ、いいときも悪いときも、あっさりと接するようにしたほうが、長く支えになることができ、それが結局は、本当の援助につながる。
よくある最悪のパターンは、最初のうちは、本人の話を長時間かけて熱心に聞き、困ったことがあれば自分が力になるというようなことをいい、一気に盛り上がってしまうのでが、本人が次第に依存的になって、どんどん関係や助けを求めてくるため、すっかりつかれてしまい、途中で投げ出してしまったり、突き放してしまうというものである。
実際、こういうパターンは、しばしば起こる。この障害の性質を知らない友人や家族は無論のこと、プロフェッショナルであるはずのセラピストや精神科医でも、こうした失敗を犯すことがある。
そこで一番傷つくのは、境界性パーソナリティ障害を持つ本人であり、人は結局、再ごには自分を見捨てるのだという不幸な人間観を強化してしまうことになる。それは、この障害を克服するのとは、全く逆の方向なのである。
境界性パーソナリティ障害の人の場合、長く変わらない気持ちで、接し続ける人がいたということを身をもって体験すること、それが何よりも援助となるのだ。熱心に関わる前に、このかかわりを五年、十年続けられるかを、自分の心に問う必要がある。安易な親切や同情や自己満足で、接してしまうと、結局本人を傷つける結果に終わる。
実際、境界性パーソナリティ障害がよくなったケースを振り返ると、身近に、変わることなく接し続けてくれた人がいる。「調子よく」本人に合わせたり、おろおろするのではなく、冷静な目で、気長に見守る存在が重要に思える。外来例を対象にした追跡調査では、十年後には約半数がこの障害を脱しているのである。逆に、一喜一憂しすぎたり、本人の調子に応じて態度をコロコロ変えてしまう場合には、一時的には変化しても、その後で必ず揺り戻しが来て、なかなか落ち着かないことになる。
一貫した態度がどこまでとれるかが、勝負の分かれ目だろう。

心中しないために

境界性パーソナリティ障害の人に援助する場合の難しさは、援助が依存を生み、援助が援助にならないばかりか、次第に援助者さえも飲み込んでしまいかねないということだ。境界性パーソナリティ障害の人は、底なしの愛情飢餓を抱えている。それを、援助者が優しさや愛情で満たしてやろうと思うことは、大きな危険がある。優しさや愛情もある部分大切ではあるが、それを一方的に与えることで、この障害を乗り越えることはできないのである。境界性パーソナリティ障害の抱える愛情飢餓は、満たそうとすればするほど深まり、際限なく愛を貪ろうとする性質を持っている。
そのことをよく弁(わきま)えていないと、気がついたときには、二進(にっち)も三進(さっち)もならない泥沼にはまっていることになる。共倒れしないためにも、こうした性質を理解しておく必要がある。
では、どうしたらよいのか。大事なことは、優しさや愛情にも限りがあるということだ。限りなく援助をすることは不可能だし、そのころは、本人をかえってダメにしてしまう。そして、究極的には、他人がどうにかすることでは乗り越えられない。乗り越えるのは、他人が愛情飢餓を満たしたり癒すことではなく、自分自身が変わることによってしかありえないということである。
そのことを本人が頭ではなく、心底から理解することが、この障害を克服する大きな一歩になる。
したがって、境界性パーソナリティ障害の接し方では、常に限界設定ということが重要になる。ここまではできるがこれ以上はできないと、はっきり告げることが大切だし、結果的には親切になる。
境界性パーソナリティ障害の人は、いったん親しくなり始めると、急激に自分をさらけ出し始める。このタイプの特徴の一つは、自らの傷や恥部を、心を許すと、余りに尚早に打ち明け始めることだ。だが、この性急な傷の告白こそ、用心しなけらばならない。
一挙に話を聞きすぎると、本人が不安定になるばかりか、自分の語った話のインパクトに、本人も聞き手も圧倒され、冷静さを失いやすくなる。ことに、本人がそうした話を、聞き手の関心を引こうとして用いている場合は、要注意である。控えめな反応に徹し、常識的なラインを超えそうになれば、話をそれとなく遮ることも必要である。あくまで、良識ある他者として接することが大事だ。
少なくとも、覗き見趣味的に、話をどんどん聞いていくということは、本人の援助とは、およそ正反対のものである。

同情は「おんぶおばけ」を生む

境界性パーソナリティ障害の人との関係において、受容や共感も当然、重要であるが、常に冷静さを忘れてはいけない。「可哀想さ」という同情に溺れることは、援助者の軸足を奪われることになる、いつのまにか感情の渦に巻き込まれてしまう。
その意味で、愛情や保護を惜しみなく与える母親的な接し方には、しばしば落とし穴がある。ダメなことはダメとはっきりいい、きちんとした枠組み、制限を設定して、それを守らせることが、境界性パーソナリティ障害の行動と感情のコントロールのためには不可欠であり、そこに求められるのは父親的な対応である。
受容や共感も最小限の反応に努め、黙って頷きながら聞いているというのがよい。そこで過敏に、感情豊かに反応しすぎることは、境界性パーソナリティ障害の感情的な起伏を増強することになり、かえって不安定にさせる。そして、常に現実的な問題に視点を引き戻すことが大事だ。過去の話をする場合も、現在、未来とつながるように、援助者が一貫した視点で眺めていることは、本人が一貫性を回復することを促す。
そうした視点を持たない援助者が、話を場当たり的に聞いてしまうと、話をすればするほど、まとまりが悪くなり、不安定になるということが起きる。過去から未来へと続く、一貫したストーリーに統合していくという大きな視点が大事である。
お釈迦さんの手のひらというわかにはいかないが、大きな視野でゆったりと見守ることが、長い目で見ると、本当の改善につながる。その意味でも、少々のことではびくともしない父親的な存在が、境界性パーソナリティ障害の人を落ち着かせていくように思う。
境界性パーソナリティ障害の増加の背景として、父性的な機能が、今日の社会において弱体化していることが、促進要因の一つとして指摘されているが、そのこととも関係しているだろう。本人の気持ちを大切にするという名分のもとに、今の瞬間の気持ちに振り回されてしまうと、境界性パーソナリティ障害はどんどん悪化していく。ダメなことはダメとはっきり突きつけ、しっかりとした枠組みを持って接することが、今の瞬間の自分ではなく、持続性とまとまりを持った自分の回復につながるのである。

自殺企図への対応

境界性パーソナリティ障害の大きな特徴は、行動化による振り回しである。愛情や関心を掻き立てるため、あるいは自分の思い通りに相手を動かすために、境界性パーソナリティ障害の人は、意表をつく行動により、心理的な揺さぶりをかけてくる。そうした心理作戦に非常に長けており、相手の痛いところをよく心得ている。そうした行動化の最たるものが、自殺企図であり、時には不幸な転帰をたどるだけに、対処が難しい。
こうした危険な行動化にいかに対処するかが、境界性パーソナリティ障害をうまく落ち着けていけるかどうかの、一つの山場となる。
自殺企図などの行動化に有効に対処する方法は、行動制限しかない。ただし、現実に行動制限しなくとも、徹底的に話し合って、絶対にそうした行為をしないと約束を取りつけ、守れない場合の情景を明確に取り決めておくことは、騒動制限を施したのと同等の効果を得ることにつながる。
病院や施設における治療では、自殺企図や自傷行為に対しては、一貫した枠組みの中で、所定の行動制限を行っていくことが、有害な行動化をコントロールする上で有効であり、治療的である。その場合、例外を認めないという方針の維持が、成否のポイントとなる。
スタッフ間や家族の間で対応にバラツキがあると、こうした試みも、うまくいかなくなる。意識統一を図り、一貫した対応がとれるように足並みを合わせることが重要だ。


克服のポイント

両極端の間の選択肢を考える

気分も考えも両極端になりやすく、その間がないというのが境界性パーソナリティ障害の人の特徴である。パーフェクトで理想的なものか、そうでなければ最悪で、無価値に思ってしまう。二章で述べた「全か無か(オール・オア・ナン)」の思考パターンになってしまう。これは、すべてのパーソナリティ障害に共通する傾向だが、境界性パーソナリティ障害では特に顕著にみられる。
現実認識を、黒か白か、善か悪かの単純な二分法で捉え、しかも同じ存在に対する評価も、両極端に裏返ってしまうのが、境界性パーソナリティの認知の特徴なのである。だが、実際の現実というものは、白とも黒ともつかない、どちらとも割り切れないものであう。いいところもあれば、悪いところもある。思い通りにいくときもあれば、裏目ばかりに出るときもある。それが人生であり、不完全な人間という存在なのだ。完全な善もなければ、完全な悪もない。
ところが、境界性パーソナリティ障害には、曖昧で、割り切れない中間のチャンネルというものが発達していない。敵か味方、自分を受け入れてくれる存在か自分を拒否する存在かという二極対立で、捉えてしまうのだ。
A子は、バイト先でも頑張り、ダンスのレッスンも受けている。どちらもうまくこなせたときは、とても充実感を感じる。ところが、ある日、朝、起きられなくてダンスのレッスンを休んでしまった。A子は、すべてがタメになったように感じて、もう死んだほうがましだと思ってしまう。
A子にとっては、すべてがうまくいっているパーフェクトな状態か、それがダメなら死ぬという両極端な選択肢しかないと感じてしまう。そんな場かなと思う方もいるかもしれないが、それが境界性パーソナリティの思考の特徴なのである。
A子にしろ、もっと冷静に考えれば、「バイトもレッスンもうまくやれる」と、「死ぬ」という行為の間には、無数の中間の段階があることがわかるはずだ。いや、実際には、わかっていても、極端な思考からなかなか抜け出せないのだが、何度も指摘を繰り返し、自分の陥りやすい傾向がわかってくるにつれて、こうした両極的思考は、次第修正されていく。何事も、時には休むことも大事なのだとか、全部をうまくやれるより、時々しくじったほうが、結果的には、物事は長続きして、うまくいくものだとか、そういった新しい思考パターンを、それとなくインプットすることで、完璧であることが価値だという思い込みが、修正されていく。むしろ、中間的な状態のほうが、安定性に優れ、衝撃にも強いのだというプラスの価値に気づく。
それは、やがて行動にも反映されていく。何事も訓練なのだ。

細く長くつながる

こうした両極的思考は、対人関係にも当てはまる。相手が、自分のことをチヤホヤしてくれているうちは、最高の人物のように理想化するが、少しでも素っ気なくされると、ひどく裏切られたように感じて、その人物が信じられなくなったり、憎しみさえ抱いてしまうのだ。

C子は、スタッフのAが熱心に話しを聞いてくれることで、Aをとても信頼し、C子の生活も安定に向かっていた。ところが、ある日、C子はD子に無視されてイライラしていた。その不満をAに聞いてもらおうと、面接を希望した。ところが、Aはその日、所要ああって時間を取ることができなかった。そそくさと帰っていくAの後ろ姿を見ながら、C子は、Aの関わりも、所詮、仕事の上だけのことで、心から自分のことを心配している訳ではないのだと思い、すっかり裏切られた気持ちになって、首をくくろうとした。
それまで、何十回も、時には何百回も、自分のために相手が時間を割き、援助してくれていても、たった一度拒否されただけで、すべての献身が見せかけのものに思えて、相手が信じられなくなってしまうのだ。その挙げ句に、激しい怒りで反応してしまう。
今まで積み上げられてきた何百回ではなく、今この瞬間の一回がすべてを左右するという気持ちの不連続性が、境界性パーソナリティ障害の対人関係を極めて不安定なものにしてしまう。過去の積み重ねの上に現在の自分は存在し、過去を、責任を持って引き受けることが、一貫性のある自分を保つことになるのだが、それが非常に難しいのだ。
だが、これも変えていくことができる。人と一貫してつながる力を、育てていくことが可能なのだ。そのために必要なことは、人とすばらしい関係を築くことよりも、じっくりと長くつながることを大切にすることだ。急に求めすぎずに、細く長くつながることだ。さらには、一つの関係を大切にする人に出会うことだ。
境界性パーソナリティ障害の人には、不思議とそういう人が現れる。何度かの失敗の後に、めぐり合えることも多い。地味だが誠実で、気持ちの変わらないパートナーが、長い時間をかけてその人を支え、癒していくこともある。

自分で自分を支える

だが、境界性パーソナリティ障害の人が、本当の意味で障害を克服するのは、結局、他人のせいにしたり他人に頼ることでは、真の解決は訪れないのだと悟って、自分で自分の問題を引きうけようと決意することによってだと思う。他人に何か求めている限り、それは不確定で、不安定な要素を必然的に孕む。どんなに誠実な人であれ、常に一定の気分や体調を維持している訳ではないから、時には期待はずれな反応しか返ってこないということが起きるのだ。
自分の問題を他者に委ねていては、いつもうまくいくとは限らないし、その他者が、いなくなるという不安に怯えることにもなる。他人に頼り続けることで、自分自身を支える力も弱ってしまう。
うまくいかないことがあったとき、他人のせいにするのをやめてみるといい。うまくいかないことがあったときこそ、自分を強くするチャンスなのだ。失敗と挫折のストレスに耐えることが、その人を強くする。寂しいからといって、すぐに他人で紛らわすのをやめてみるといい。孤独に耐える力が、その人を強くする。何か欲求不満が生じたとき、それをすぐに解消しようとするのをやめてみるといい。その人は、そう決断できた自分の力を手に入れて、みるみる自分が変わっていくことを実感するはずだ。
結局、自分を変えるのは自分にしかできない。その人自身が、自分のつらさを自分で引き受けて、どうにかしようと思ったとき、その人は変わり始めるのだ。本当は、その人の中にはそうする力が眠っていることに気づくだろう。
もちろん苦しいときは、助けを求めたらいい。だが、相手がうまく助けてくれなかったから自分が苦しいのだとは思わないほうがいい。相手も、疲れて気持ちに余裕がなかったのかもしれないし、何か苦しいことを抱えていたのかもしれない。でも、きっとうまく助けられなかったことを、相手も気にしているはずだ。
もし、相手が、気分をうまく変えられるアドバイスをしてくれたら、その心地よさに甘えるのではなく、そのアドバイスを心に刻みつけることだ。その場その場で、人との関係を消費してしまうのではなく、絶やさない灯火にしていくことで、その人の人生はつながっていく。そして、その人が、周囲の人に素直に感謝することができるようになれば、その人は、もう癒され始めているだろう。