どうしよう?

推奨されたのではてなダイアリーからインポートした

挫折の連続なのだ。そりゃもう、物心ついた頃から。
それでも私は、その挫折とどう折り合いをつけるかを考えてた。無茶な事も考えたし、強引な事も考えたし、ジコチュウでもあったけど、どうやって生きて行くかを考えてた。
つまり、生きていたいと思うって部分に関しては揺らがなかったわけよ。

どうして、挫折や傷つく事を回避しようとするあまり、生きる事を回避するのか分らない。

笑われるかもしれないけど、この世以上の楽園を想像する事が私にはできないのだ(←多幸症なのかもしれないと、時に素で不安になるけど)。

風が吹いている事を聞けるのが嬉しい。それが感じられるのが嬉しい。石がそこに転がっているのが嬉しい。それに出会ったことが嬉しい。同じ場所に居るのに、昨日とは違う空気なのが嬉しい。雨に湿った道が嬉しい。照りつける陽射しが嬉しい。私の周りに居る人が、みんな違う顔をしているのが嬉しい。私の周りに居る人がみんな違う思いを持っているのが嬉しい。そんなことを感じられる五感を持っている事が嬉しい。

てんとう虫が車に轢かれた死骸を見たら、傷ついたりもするけども、そこで轢かれるまでまでてんとう虫は生きていたんだと思う。どうしててんとう虫は道路に出て来たんだろうと思う。道路を歩いてしまったから轢かれたんだなぁと思うけども、道路にはでないで飛んでるてんとう虫も居たんだと思うと、道路に出て来たてんとう虫の「固有性」みたいのにやっぱりなんだか感動してしまう。

今日の電柱は昨日の電柱よりも1日を経過した電柱なのだと思う。風にあたり雨に打たれ1日ぶんの歴史を背負ってるんだとも思う。綺麗に並んだ電柱にどうしようもない美しさを感じ、これを立てた人が居て、これの恩恵にあずかっている人が居て、そこにはささやかな楽しみがあるだろうと思い、日本は豊かな国なのだなと思う。

追いやられながらも自然は生き場所をみつけ、セイタカアワダチソウの逞しさ感動もすれば、道路工事の基礎作りの手順にも感動する。

空を見上げて、その美しさに驚き、雲の形が2度と同じでないことに、はかなさを感る。川を流れる水にも感動する。流れていく水は全て別の水だということにはかさと美を感じ、それが集まって流れを作ることにも驚きと美を感じ、濁った水に人が生きる気配を感じ、一方で澄んだ水の透明な美しさに感動する。

そんなすごい世界に生きてるのに、どうしてそれらを感じられるような状況にある人が死に急ぎ、虚しさだけを感じてしまうのか、不思議でならない。

…ごめんなさい。よく、ノーテンキと言われます。だけど、鈍感なのはどっちもどっちなんじゃないの?ぐらいの事は言ってみたかった。