どうしよう?

推奨されたのではてなダイアリーからインポートした

掲示板が無いのは不便ですね。今回も、コメ欄に書きたい事なのですが、はてなで、色んな不具合を経験したんで、色々長くなりそうな今回もエントリーて形にしますね。

欲しかった視点
#私個人はコメントのやり取りで「対話」をするような形の方が、物事を理解し易いと感じています。エントリーを繋いで行くってやり方は、面倒くさい上に、タイムラグによる「誤差」が無駄に齟齬を広げるような部分があるように感じて、あんまり好きじゃないです。
#一方で時間ってリソースをそこにどのぐらい費やせるのか?とか考えると、どこまで「対話」が可能なのかにも、それなりに疑問がありまして、良い方法ってどんなんでしょうね?

最初に書いたやつで、私にとってキモとなるのは、子供から聞いた話から思い出した、「みんなからの評価」が「存在価値」に直結する(と思ってしまうのは)、好ましくない、て事で、私の気分としては、あんまり歌の方とは関係のない事でした(だいたいあの曲のヒット以前の話ですし)。

正直最初のエントリー読んだ時点では(本来)言いたかった事ってのはあまりよく分らなかったのですが、それとこれとは「別の問題」だと認識し難い状態はキツイよなぁ、と思ったので、そういった事を書いたつもりです。

又、実情は分らないけども、そんなに問題にするような事でもないんじゃないの?とは、当初も思っていましたし、今でも思っています。

ところで、ちょっと返事(と言うか感想?)からは外れてしまいますが、別の方面で困惑した事がありました。

「欺瞞」と言う言葉の選択がまずかったのか、何時の間にか、話が「自己欺瞞」の問題に進んでしまった事です。私のエントリーが直接関係したのかどうかも分らないのですが、あれ、もしかして誤解されてる?と思ったので、少し書きますね。

私が使った「欺瞞」は、単純に「嘘」又は「間違い」と言う意味で、この歌詞には「誤解を招きやすい表現がある」のが気に入らなかったのです。一方で、歌謡曲の歌詞にそういった厳格な表現を要求をするのはただの「へんこ」だとも思っていまして、なぜ嫌いなのかは、単純に私の側(≒個性)の問題だと思っていました。

#前提コケは私の困った悪い癖で、これで随分視野を狭めていると思っているのです。
#例えば、「小さい蛙」を「蛙の赤ちゃん」と呼ぶに触れたりすると、「蛙の赤ちゃんはおたまじゃくし」と訂正してしまって、話を折ってしまう事があるのです。

私は、(極端な例を引きますが)「痩せなくてもいい元々金持ちなんだから」と言う文章の構造に、いやそれ別の問題だし、と突っ込んだ訳で、「自己欺瞞」とか、社会は欺瞞を孕んでいるから云々みたいな事は考えていませんでした。

又、一方で、「自己欺瞞」というものが、強烈な批判に晒される事が何だか不思議でもありました。そもそもそれがどう悪いのかよく分らない。

自己欺瞞てのは、文脈なり被害者なりがあって初めて問題になる事で、「自己欺瞞そのもの」を問題にするて、どんなマゾ(orサド)やねん?とか思います。

それは、平凡な事だし、(時に)必要な事だし、誰しも逃れられるものじゃないし、充分分ってする事もあれば、知らずにやっちゃう事もあるだろうし、だいたいが、そんなとこを、ゆらゆら揺れているのがうちらのあり様で、それって、イチイチ是非を問うような事じゃないんちゃいます?とか思います。

#文学のテーマにはなると思いますが、とてもとてもプライベートな事であると思います

と、自己欺瞞についてはこんなとこですが、ここんとこのエントリーを読んで、ああそうなのかそうなのか、と色々腑に落ちたんで――分っていて、と書かれていましたが、「何が」分っていてなのかがよく分らなかったのですが、たぶん「感じていた」事が似ていたから、そう言う風に思われたのだと推察します。私の方では、(ようやく)、ミッシングリンクが塞がったみたいな感じです――、そこら辺についての雑感て形になってしまいますが、少々。

たぶん、私たちが感じていた一番大きい違和感は、実情又は実感とのズレなんだと思います。

「肥大した自己愛」の「象徴」として「世界で一番の花」を使っている、と言う理屈は分るのですが、「世界で一番の花を好む人」を「肥大した自己愛の持ち主である」とする「飛躍」にはついていけない。そこで既にあれ?と思っているのだから、それを世相と言われても、そうかもしれないしそうじゃないかもしれない、としか思えない。

たぶん、ここら辺が私たちのよく似た感じ方の部分です。が、私は前の事もその前の事も今の世間での受容具合もよく知らないので、そこから先はなんともなー、と思っていました。

そんな具合だったのですが、今回、多くのこの歌を「嫌悪」する人が書いた文章を読む機会を得て、一番驚いたのは、この曲に対する「憎しみの強さ」でした。もちろん、ブログのエントリーの表現は、幾分誇張してある事が少なくないし、敢えてそういった表現を用いる事も少なくないだろうとは思っています。

だけども、「叩く事」こそが目的になっているかのように見える激しい反応を見ていたら、この歌が「どうひどい」のかはよーわかったから、「なんでそんなに憎い」のか、むしろその理由が知りたくなって来ていたのです。

私の興味は、この歌の解釈を離れて、それぞれの語り手に向いました。仰るとおり、結構昔のヒット曲にも関わらず、憎しみ(と、私には感じられた)を「持続」しているようにも見える、その激しさの理由が気になって来ていました。

又、これらを読みながら、丁度この歌がヒットしていた頃に、この歌にむちゃくちゃ怒っているブログを読んだ事も思い出しました。

#古い話で、確かめようもないのですが、はてなダイアリーで書いていた人で、私の記憶によりますと、大学院で研究職をしている既婚の女性だったように思います(鬱日記でもありました)。
#何か、努力家の方の逆鱗に触れるものがあの曲にはあるのかもしれないな、とかぼんやり思いましたが、別に根拠はありません。努力家じゃない私もあまり好きではありませんので。

と、そんな気分で居た時に、先のふたつのエントリーを見て――正直最初のだけを読んだ時には、あまりピンと来ませんでした。と言うか、トラックバック先の文章は、私には(何が言いたいのか良く分らないという意味で)意味不明でした――、ああ、それを問いたかったんだ、と分ったのです。

ただ、それを文章で表現するのは難しいなと思いました。真正面からやったなら、「批判批判」になってしまうし、恐らく、論点も拡散するでしょう。

もしかしたら、「世界に一つだけの花批判」関連のリンク集を作って――時系列順に並べて、語り手の年齢性別社会的ポジションなんかも入れて――、それを一覧する事で、何かが帰納的に見えてくるかもしれませんね。