どうしよう?

推奨されたのではてなダイアリーからインポートした

言葉が交錯するところ。

価値
存在価値
社会的価値
到達点
独自性
関係性
職業観
天職
喰う(≒生きる)為の労働
目標
自己実現
他者からの承認
自己愛
過剰
過小
平等
結果の平等
機会の平等
教育
相対評価
絶対評価
オンリーワン
私は特別なオンリーワン
誰かにとって私は特別なオンリーワン
私にとって私は特別なオンリーワン

行き違いと思える部分はここら辺。後、現状認識。何に重きを置くかで問題意識が変わって来るけども、ここの所のやり取りを読んでいて、キャッチフレーズのやり取りをしないで、もうちょっと限定的な表現を用いた方が齟齬が少なかったんじゃないかと思える部分やそこら辺から考えた事なんかを思いつくままに列記。

後、社会の問題を「教育」から見るか「生活」から見るか「個人」から見るかでも変わって来るので、「どれが」正しいかを考えるのはあまり意味がないんじゃないかと思う。

私の問題意識は「生活」にあるんで、上の中では「生きる為の労働」が最大関心事だけど、ここら辺はすごく複雑に絡み合ってて、とても難しいけども、私個人は、差し当って「みんなが生きていける方法」についてはちゃんと考えようと思ってる――一方で、「みんなが幸せなる方法」みたいなのを「突き詰めて考える」事は好ましくない事だと考えている――。

正直戦後教育ても、私は自分の時もうちの子に関しても、学校は生きていく上で必要であろうと思われる勉強を教えてくれたらそれでいいと思っていたので、教育内容についての弊害を実感した事ってあんまりないんだわ――ただ、勉強したい人には、学費免除してやれよ、みたいな思いは結構強い――。が、戦後教育の弊害ねぇなんだろうねぇと思ってて、思い出したのがエミール。もしかしたら、戦後教育が目指していた(らしい)「個性を伸ばす」て方向は、あれの世界観みたいなのかもしれないな、と。

あれを真に受けるのはほんとに悲惨だと思う(超絵空事)。にも拘らず、人は「天職」と言えるようなものをみつけて毎日を生き生き生きる「べき」だと言うメッセージてのは、戦後の学校教育の通低音になっていた部分は確かにあるように思う。私が、目標がない事がコンプレックスになったのも、この通低音を感じていたからかもしれないな、とは思った。

天職と言えるようなものをみつけるべしと結果の平等て、ちょいとベクトル違うよな。これがどんな風に変な形で結び付いたのかは私にはよく分らないし、それがどのぐらいの影響力を持っていたのかもよく分らないけども、具体的な資料みたいのがあったら読んでみたいな。



前に、大野さんに視座が違うと言われて、なるほどなー、と(勝手に)思ったのですが、私が「世界で一番の花」と肥大した自己愛とがイマイチうまく結び付かないと感じたのは、ヒット曲やその受容具合をよく知らない事もあったけれど、それ以上に、世相の中で感じる肥大した自己愛(のようなもの)の要因の多くは「資本主義」にあると感じているからなんだな、と、戦後民主主義教育云々の下りを読んでみて気がついたんだわ。

労働者として搾取される一方で、消費者として欲望を煽られ優遇を当然と考え(ように仕向けられる事もある)そのように振舞う。そうやって消費社会が進んで来たけれど、資本主義の競争原理の表と裏のバランスが崩れてしまったのが今って時代だと感じているから、私の問題意識は労働に向かってるんだな、と。

少なくとも、資本主義の競争社会と言う現実と理想とされている平等教育のイデオロギーの対立って考え方は、私にはなかったな。

一方で、教育に強い興味が向かうのは、学校教育周辺に居る人なんじゃないかなぁ、とも思った。学生、教師、学校に通う子を持つ親。