どうしよう?

推奨されたのではてなダイアリーからインポートした

えと、そんな大げさなもんじゃないんですけど、前の方で、それ矛盾しているんじゃないの?と何度か指摘したじゃないですか。
で、書いてる内容は色んな部分で矛盾してるけども、起きた出来事やそれに対する一種のイラダチみたいのは、別に特別な話じゃないよなぁ、とも思ったんですね。

#なんでここで怒るんだ?と一瞬驚いてから、ああ、そんな部分が気になる人なんだなぁ、と言った形で納得するみたいな感じ。
こんな部分が気になるのかぁ。色々だよなぁ、と思った訳です。

が、一方で、はっきり非難はしていないけれど、こんなささいなエピソードから、「最初に相手を責める人」か「最初に自分に落ち度がないかを探す人」かと分けるてのは、アッチに分類された人には失礼だよなぁ。とも思いました。

それを言うなら、「睨んで来たおばさんサイド」や「平気そうにしていた彼女サイド」はどうなのよ?みたいな。

又、自分が「気がついていない」落ち度に関してならば、気がついていないのだから、当然平気そうにしている訳で、そこが気になっている人からみたならば、aozoraさんは自分の落ち度に無頓着な人と見られている事も充分ある訳で、随分と手前勝手で恣意的な分類であるようにも当初は思えました。

ただ、手前勝手な行動をしている訳でもなければ、相手の立場を尊重する必要がないと考えている訳でもない(と言うか、むしろ気をつけようと強く配慮している)のは、充分に伝わる訳ですよ。

この、判断と行動との間にある、一種の落差や矛盾はどこから来るのだろう?で、説明を聞いてみると、やっぱり矛盾してるじゃん、と思う事の方が私には(実は)多かったのです。

そこで、今度は逆に、これが矛盾と感じられず(≒大した問題だとは思わない)、こんな場面で(一種の)違和感を感じて、「人は相手サイドで考える人と自分サイドで考える人の2種類が居る言う考え」に至るのは、どうしてなのだろう?について考えてみようかと思ったんですね。

そもそもが、「相手サイドで考える」、と「人の内心は分らない」は矛盾していると私には思えたのです。人の内心は分らないのなら、相手サイドで考えるのは不可能なのだから、それを言うなら、「自分が相手サイドだと思っている事を考える」と言う事になるのだから、それもやっぱり自分サイドでしかないのではなか?みたいな。

そう考えてから、あーでも、どっちサイド以前に至極「常識的」な話しだしなー、こんな普通の出来事でいちいち内面がどーのも変だよなーて事なんですよ。

とても常識的な行動と反応をされている、と言っては変なのですが、駐車場でドアを開けっぱなしにしないようにずっと注意を払っていて、学校への提出物が遅れたりしないように気をつけていて、至極当たり前の事ではありますが、当然誰でもミスをするし、何時でもそのように行動できる訳でもないのも、至極当たり前。

#ついでに申し上げますと、悪いと思いながらやってしまったら、反射的に謝ってしまうのは当たり前で、例えば遅刻第一声てのは、ごめ〜んで決まりでしょう。(これが最初に出ない人が悪かったと思っていないとは思えません。ただ、下手な人はごめんの前に言い訳を始めるんですよねw)

何時でも気をつけていて、落ち度がないか確認して、それが出来なかったら罪悪感がある。
一方で、睨んで来たおばさんに対しては、何も確認しないままに、「非常識な人と思っているだろう」と考え、ドア以外の可能性は考慮もしていない。私の感覚ですと一貫性のない話です。やってる事と言ってる事が違ってるんじゃないの?

ここで「大文字の他者」が登場したんです。
私も詳しい事はよく分らないのですが、ちょっと前に知って、ああ、私てば、あんまりこの「大文字の他者」てのを問題にしてないなー、と言うか、私の認識世界でこの人が占める割合はかなり狭いよなーとか思ってたんですね。

#色々読んでると、この頃は「大文字の他者」を認識しにくい時代と言うのもあって、なるほど〜、とも思ったんです。

#ですので、この2種類てのは、ジェネレーションギャップみたいな感じの断絶をふっと感じた時の感情なのかな?とか思いました。多分、感じる場面も現象も違うとは思いますが、それを感じるリアクションみたいなのを示したんだなと、思いました。(本文を書いた当初よりも、レスの方が書いた相手への評価がソフトになっていると感じたのは私の思い過ごし?w)

ラカンに限らず色んな人がこの言葉を用いていますが、「母なるもの」とか「男なるもの」みたいな感じの、具体性を「持たない」「他者なるもの」て感じの意味だと私はざっくりとこの言葉を理解し(たことに)てて、そこでひょっと来たのですわ。

この罪悪感は、大文字の他者を規範として内面化し、常にそれに自身の言動を照らし合わせているから出て来るのではないのか?と。
大文字の他者とは自分の内部にある外部だという表現がありました。「自分が相手サイドだと思っている事を考える」を「相手の立場に立って考える」と表現するのは、そう言う捉え方から来たんだ、と、思いました。

で、一旦そう思ったら、ああ、居る居る一生懸命そのようにして考える善人って、と一気に腑に落ちたのです。で、私はここの部分が弱いからこそ、なんで聞かなかったんだろう?の部分にひっかかったんです。相手サイドに立つ為には、先ずは相手の事を知る必要があると考えている訳なんですよ。明らかに前提が違う。

当人にしたら、これはどう考えても自分サイドじゃない訳です。が、かと言って決して目
の前の他者(現実の他者≒小文字の他者)て訳でもないんですよね。

「書類を集める人」の立場てのは、書類を集めている当番である誰かてよりは、学校行事を執り行う人と言う、大文字の他者と考えた方が、この時の罪悪感も理解しやすいです。かけてる迷惑はいっしょだし、例えば不可抗力ならば(乗っている電車が事故にあって遅刻するみたいな)しょうがない、にも関わらずごめんなさいと思ってしまうような人てのは確かに居て、それは大文字の他者を規範として内面化して常に自分の言動をそれに照らしている、とか考えると、ほぉ、なるほど〜、と、ひどく納得できるように思えました。