どうしよう?

推奨されたのではてなダイアリーからインポートした

第5章 主人公を演じる人々――演技性パーソナリティ障害

特徴と背景

天性の誘惑者にして嘘つき



演技性パーソナリティ障害

過度な情緒性と人の注意を引こうとsくrく広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上)のよって示される

  1. 自分が注目の的になっていない状況では楽しくない
  2. 他者との交流は、しばしば不適切なほど性的に誘惑的な、または挑発的な行動によって特徴づけられる
  3. 浅薄ですばやく変化する感情表出を示す
  4. 自分への関心を引くために絶えず身体的外見を用いる
  5. 適度に印象的だがないようがない話し方をする
  6. 自己演劇化、芝居がかった態度、誇張した情緒表現を示す
  7. 被暗示的、つまり他人または環境の影響を受けやすい
  8. 対人関係を実際以上に親密なものとみなす

演技性パーソナリティ障害の人の本質的な囚われは、他人を魅了しなければ、自分が無価値になるという思い込みである。演技性パーソナリティ障害の人は、自分の前にいる者を魅了し、驚かし、注意を惹きつけることが、自分の存在を保つために、何よりも重要と考えるのである。
そのために、自分自身であろうとするより、周囲にアピールする役柄を演じてしまう。その役柄が、人も羨むヒロインだったり、清らかなお嬢さんだったりすることもあれば、可哀想な犠牲者だったり、セクシーな妖婦だったりすることもある。いずれにしても、どこか作り物めいた、わざとらしいところがあるのが普通だが、余りにもみごとに役になりきっているので、すっかり周囲が欺かれることも少なくない。
他者の賞賛を貪ろうとする自己愛性パーソナリティ障害との違いは、演技性パーソナリティ障害の人は、他人を魅了し、関心や注目を引くためになら、自分を貶めるようなことや傷つけることも、平気でやってしまうということである。その意味で、演技性パーソナリティ障害のほうが、自己愛性パーソナリティ障害よりも、より不安定な要素を含んでいる。
実際、演技性パーソナリティ障害は、すべてのパーソナリティ障害の中でも、非常に衝動性が高いものの一つである。自殺という不幸な転機をとったり、危なっかしい情事や薬物乱用、犯罪にもかかわりやすい。
演技性パーソナリティ障害の人にとって、他者の目、他人の評価こそが重要なのである。だが、ナルシストのように、生身の自分そのままで勝負するほど、自分を愛しているわけではない。彼らは、自分が空想する幻の自分を作り出し、それで勝負しようとするのだ。あたかも、その空想の中の自分が、現実の自分であるかのように錯覚することで。
当然、空想と現実とのギャップが生じてしまう。それを彼らは演技や嘘で穴埋めするのだ。そのため、虚言も演技性パーソナリティ障害でよく見られるものである。それは、他者を魅了するために必要な小道具のようなものだ。自分の嘘に酔って、半ば信じてしまうのもこのタイプの特徴だ。虚言の内容は、相手に心理的インパクトを与えるものでなければならない。演技性パーソナリティ障害の虚言は相手を騙すというよりも、虚言が引き起こす相手の反応に、本人は酔いしれるのである。例えば、重病を装ったり、犯罪の被害に遭ったといったり、後でばれるような嘘もついてしまう。相手はひどく心配したり、動揺する。それが、当人にはたまらないのだ。学歴を詐称したり、名家の出であるといったり、ステータスに関する嘘も好まれる。演技性パーソナリティ障害の人は体裁や外見、ステータスといった外側の部分を、とても重要視するのである。
演技性パーソナリティ障害の人は、絶えず他者を魅了するるが、ことに異性を魅了することに熱心である。相手をうっとりさせ、心を射止め、素敵な一晩を過ごせば、それでショーは完結するのだ。演技性パーソナリティの人は、頭の先から足の先まで、性的な存在である。常に誘惑し、魅了し続けることによって、自分の価値を証明しなければならない。最高のセックス・パートナーだが、最高の配偶者かは疑問である。家庭生活など、演技性パーソナリティ障害の人にとって、寒気がするだけの代物である。ステージの上で生活することなどできないように、ステージが終わったのに、いつまでもお客と付き合わされているようなもので、興ざめなだけなのである。
何かの弾みで結婚することもあるが、やがて自分の間違いに気づく。このタイプの人は、次々と新しい観客を、魅了する必要があるのだ。それを禁じられると、すっかり元気がなくなってしまうのである。性的に誘惑するわけにはいかない同性の友人との関係は、とかく表面的なものとなりがちである。

マーロン・ブランド「うつ」

人は、なぜ演技性パーソナリティ障害になるのか。それは、彼が幼い頃から、自分ではなく、他人を演じる必要があったからだ。
部隊俳優として出発し、ハリウッド・スターとして世界的に有名なマーロン・ブランドは、『欲望という名の電車』で一躍大成功を収めたとき、二十三歳だった。その頃から、彼はうつ病に悩まされるようになる。ブランドは、途方もない成功の渦中にあっても、「自分が無価値な人間である」という確信を変えられなかった。
毎晩、舞台が終われば、七、八人の女性が彼を待っていて、彼はその中のお好みの女性と、夜を楽しむことができた。彼の発言は、社会時評として雑誌や新聞に載り、誰もが彼に注目した。途方もない収入と社会的な名声。
だが、彼は心に空虚を抱き続けていたのである。
彼はフロイト派の精神分析医の治療を数年受けるが、「何の助けにもならなかった」と彼自身回想している。彼の「うつ」が何に由来するのか、その原因を突き止めたのは、彼自身だった。ただし、ブランドが、そのことに気づいたのは、四十代になってからだと述べている。
彼の「うつ」の原因は、母親との関係にあった。
彼の母親はアルコール依存症であり、不安定な女性だった。母親は子供には冷淡で、幼いブランドの印象に残っている最初の記憶ともいえるものは、ジンを飲んだ母親の息が発する甘い匂いだった。後年、ブランドは、それと同じ匂いのする女性に対して、激しい性的興奮を覚えたと述べている。このタイプの人一流の受けを狙った言葉だと、割り引いて考える必要はあるが、母親や父親への性的な関心が昇華されていないのは、演技性パーソナリティによく見られる特徴である。
物心ついた頃の彼は、飲酒する母親に対して嫌悪を覚えていた。子育てにもう飽き飽きしていた母親は、彼には無関心だった。
学校時代の彼は、反抗的で、軍の幼年学校も規則違反のため退学となっている。彼は心のうちに、空虚感とともに激しい怒りを抱えていたのである。その点では、彼は境界性パーソナリティ障害的な傾向を有していたといえる。演技性パーソナリティ障害と境界性パーソナリティ障害、自己愛性パーソナリティ障害は親戚のようなもので、しばしば合併するのである。
この怒りも「うつ」も、その根元をたどれば、母親から無条件の愛を、十分に注がれなかったことに由来している。

演技性パーソナリティ障害の人は、意外に「うつ」になりやすい。その根本には、境界性パーソナリティ障害などと同様、満たされることのない愛情飢餓がある。多くの場合は、母親との関係に問題を抱えている。
このタイプの人には、母親と顔を合わすたびに、あるいは、母親と別れた後で、強い「うつ」に見舞われるということがよく見られる。
ブランドも、彼の最初の「うつ」が、母親がニューヨークを去ったときから始まったことに気づいた。つまり、彼の成功も、究極的には、母親という一人の観客のためになされたことなのだ。母親が去ることは、彼の舞台が意味を失うことだった。
ブランド自身、自分の模倣する才能についてこう語っている。
「幼少期に誰にも愛されず、受け入れられないと、人は自分を他の人たちのようにしようとする。そのような子供は、おおむね周囲の人の顔を手本にする。人を観察することを学び、その話し方や考え方を探ろうとし、自己防衛のために、人々の表情や振る舞いを真似る。なぜなら人は、他人の行為に自分自身の影を求めるからだ。そこで俳優になった私の内側には、人の感情に訴える演技力がすでに備わっていた」(『母が教えてくれた歌』第三章)

チャップリンの子供時代

希代の喜劇俳優チャールズ・チャップリンの才能の成立と、彼の波瀾に満ちた人生を考えるときも、不安定な母親の愛情が、幼い子供に与える影響の大きさを考えずにはいらなれい。
チャールズ・チャップリンの自伝は、彼が十二歳だったときの、ある日曜日の光景から始まる。その日、チャップリン少年がケンニントン・ロードの華やかな人通りを、いつものように見物してから、裏通りにある、貧しい屋根裏部屋の我が家に戻ってくると、沈み込んだ母親が物思いに耽っていた。いつもは綺麗好きの母親が、掃除をしていなかったので、部屋は散らかって余計陰気臭かった。母親は、帰ってきた息子を追い払うように、家には食べ物もないので、知り合いのところへ行くようにいう。だが、チャップリン少年は、母のそばをなかなか離れようとはしなかった。なぜ、行かないのかと訊ねる母に、少年は涙ぐみながら答える。
「だって、母さんと一緒にいたいからさ」
その日の場面が、チャップリン少年の記憶に鮮明に焼きついたのには、理由があった。それが、彼が最後に見た、正気の母親の姿だったのだ。
数日後、明らかに精神に異常をきたした母親は、入院することを余儀なくされる。その後、短い回復はあったが、母親は、彼の愛した元通りの母親に戻ることはなかったのである。
チャップリンの母親は、花形の女優だった。長男シドニィ、四歳離れて次男のチャールズが生まれた。チャップリンを生んでからも、彼女は舞台の仕事を続けていた。母親が仕事に出かけている間、二人の兄弟の面倒は家政婦が見ていた。
父親も俳優だったが、大酒飲みで、素面のときには瞑想的で大人しい人柄が、酒が入るとがらりと豹変した。チャップリンが生まれて一年後、両親が離婚したのも、父親の飲酒癖が原因だった。チャップリンの人生がようやく始まった時期、両親の愛情はすでに壊れかけていたのだ。
離婚した当時、母親には女優としての収入が相当あり、暮しに困ることはなかった。だが、新たな不幸が襲う。母親の声が出なくなったのである。母親は、不安と失意から次第に神経衰弱を病むようになる。
五歳のとき、突然訪れたチャップリンの初舞台は、声が出なくなって、観客の野次に泣きながら舞台をおりてきた母親の身代わりに、監督に手を引かれて、否も応もなく舞台に連れ出されたというものだった。舞台に一人取り残された幼いチャーリーは、聞き覚えた歌を歌い、物真似までやってのけたのだが、出し物の一つは、声の出ない母親のしゃがれ声で歌う歌を巧みに真似たものだった。爆笑の渦が起こり、舞台には小銭の雨が降り注いだ。大成功だった。最後には、先ほどは野次に追い払われた母親まで、歓呼の声で迎えられた。
だが、それが、チャールズ・チャップリンの初舞台であると同時に、母親の女優としての最後の無頼となった。針仕事をして二人の息子を養うしかなかった彼女は、偏頭痛に悩まされ、満足に仕事もできなくなる。一家をどん底の貧窮が侵す。それからは、貧民院との往復の生活だった。母親の精神は次第に蝕まれていく。母親が最初に精神病院に入院したのは、チャーリーが七歳のときだった。残された兄弟は、別れた父親に引き取られた。その後、一度は回復した母親と再び暮し始めるが、以来、チャーリーは、母親が次第に彼の世界と正気から遠ざかっていく姿に、心のどこかで怯えながら暮すことになる。
困難は続く。わずかながら扶養費を援助していた父も、酒に身を持ち崩して職を失い、やがて死の床につく。父親が亡くなったとき、喪章を腕に巻いた幼いチャーリーは、早熟な演技の才能を、舞台とは違った形で示すことになる。
彼は市場で仕入れた水仙を、小さな束に分け、憐れを催す格好をして、酒場に繰り出すと、「水仙はいかが」と売り歩いた。腕の喪章に目を留めて、客が「誰が亡くなったの?」と訊ねたら、もう商談は成立したも同然だった。花を買ってもらえた上に、チップまでもらえたのだ。チャップリンの映画のワンシーンを髣髴(ほうふつ)とさせる、そんなエピソードは、彼が観客自身の抱えている自己愛の傷を、巧みに刺激し、心を動かす術を、幼い日にすでに身につけていたことを示している。だが、それは悲しく過酷な生い立ちに育まれたにびでにあった。
チャップリンの生涯は、子供時代に受けた深い傷を、才能と幸運によって、みごとに乗り越えた稀有の例といえる。幼子が必死に演じるような、彼の抱える根元的な悲しみが、観客の心を深い部分で揺さぶらずにはいられないのだろう。

ココ・シャネルと虚言

演技性パーソナリティ障害の人すべてではないが、しばしば見られるのは虚言癖である。彼らは、本当のような嘘をつく。だが、反社会性パーソナリティ障害の者がつく嘘とは、その性質は異なっている。反社会性パーソナリティ障害の者がつく嘘は、相手を騙し、利用するための嘘である。そこから、彼らは不当な利益を得ようとするのだ。
だが、演技性パーソナリティ障害の者がつく嘘は、利益のためではない。周囲の者をあっと驚かせ、注目、関心を得るためである。あるいは、夢に描いたヒーロー、ヒロインに自らを同一化させ、主人公気分を味わうためだ。
賞賛、関心を求めるという点では、ナルシストと非常に似ているし、演技性パーソナリティ障害とナルシストが同居することも多い。
先に挙げたココ・シャネルの場合も、そうしたケースだといえる。ココ・シャネルは、彼女の生み出したすばらしいファッションとともに、虚言を巧みに繰ったことでも知られている。
全章で書いた憐れな少女ココの美しい物語だが、実は、あの神話ともなった話の枢要な部分にも虚言が混じっているのである。
彼女は六歳のときには、天涯孤独であったかのように語っているが、実際、母親が亡くなったのは十二歳のときであったことが、その後明らかになっている。また、預けられた伯母たちに、意地悪な仕打ちを受けたことが執拗なまでに述べられ、同情をそそるのであるが、母親の死後、姉と一緒に預けられたのは伯母のうちではなく、修道院の孤児院だった。
多くの評伝が示しているように、ココ・シャネルはとても虚栄心が強く、多くの虚言のエピソードが残っている人でもあった。それは、彼女の貧しい出自と高すぎるプライドの釣り合いをとるために、必要なものだったのかもしれない。だが、それは、彼女の人を惹きつけ、魅了する能力とも分かち難く結びついていたと思われる。
主人公を演じる才能は、他人の気持ちを捉える能力である。それは、新たな様式やスタイルを生み出す上において、重要なのである。すぐれたアーティストは作家は、演技性的な能力を持っている。でなければ、存在しないものを生み出すことなどできない。演技性のパワーは、現実でないものを、ありありと感じ、表現する能力でもあるのだ。それは、嘘をつく能力と、奥深いところで結びついている。
ただし、その嘘をつく能力が昇華されずに利己的に用いられると、とても困ったことにもなる。
このタイプのパーソナリティ障害を持つ者は、自分に対する愛情や関心を得るためなら手段を選ばない。狂言自殺がしばしば起こるのは、このタイプである。時には、全く無関係な第三者を巻き添えにすることさえある。
強制わいせつやレイプされたと事実無根の訴えをし、寝耳に水の第三者を犯人に仕立て上げても、全く良心が痛まない。
秋田で起きたある事件では、全く無関係な第三者であったのにもかかわらzく、強制わいせつの罪で訴えられた男性は、問題の女性の嘘によって、社会的信用も、半生かけて築き上げた会社も失ってしまった。被害を受けたと訴えた四十代の女性は、新婚の夫の関心を引くために嘘をついたのだった。女性は嘘がばれた後も、けろりとして語った。
「今は、夫に愛されていて幸せです」と。
このタイプの人は、嘘をいっているうちに、自分でも本当にそれを信じ込んでしまうようなところがあるが、それは、このタイプの人が持つ被暗示性の高さと関係があるだろう。

映像メディアの時代には大活躍

演技性パーソナリティは、優れた表現力や人を惹きつけ、感動させる力を持っている。どうすれば人の心が掴めるかを、体で知っているのだ。このタイプの能力は、映像メディアの時代には、非常に重要なポジションを占めることになる。
映像メディアにおいては、言語的なメッセージ以上に、非言語的なメッセージが重要になる。声の調子や表情、身振り、かもし出す雰囲気といったものが、言葉以上に聴衆を捉えるのである。演技性パーソナリティの人は、まさに非言語的な伝達の達人である。タレントや俳優としてだけでなく、学者も政治家も、メディアの時代に成功するためには、演技性パーソナリティの要素を持つことが強みになる。人気が政治力を左右する時代には、大衆の心を掴めるか否かが、政治的信条や手腕よりも、政治生命を決めるのである。
しかし、そこには必ず落とし穴がある。演技性パーソナリティの持つ長所の裏には、短所もある。見栄えがして、パフォーマンスに優れる人気者を選ぶということは、演技性パーソナリティが抱える他の欠点、例えば、嘘が上手ということも選んでいるということを忘れてはならない。
大衆が、こうしたことをよく認識することは、大衆自身がより賢明になり、民主主義を新たな段階に発展させることにつながるだおる。
演技性パーソナリティ障害は、全人口の二〜三%に認められるとされるが、パフォーマンスや外見に価値をおく社会では、一層隆盛するだろう。

根底にあるものは何か

本来、子供にとって、父親、母親、あるいはその両者の関係というのは、余り性的なニュアンスを伴わないものである。ところが、何かの事情で、父親や母親が、親である以上に、男であり女であるという事実が露出するような状況があると、子供は演技性パーソナリティ障害になりやすいように思う。
もっともありふれた事情は、父親や母親の不倫や異性問題であろう。母親が父親の愛情を得るのに一生懸命な姿を見せたりする状況は、子供を性的誘惑者にしてしまう危険を生むだろう。
ある女性は、面接を始めて五分も経たないうちに、父親が彼女にどんなふうに性的虐待を加えたかを、こと細かに描写し始めた。その様子に、余り悲痛さは感じられず、むしろ嬉々として語っているように思えた。その後、さまざまな過程を経て、彼女は、その告白がすべてデタラメであったことを認めた。
彼女の父親は、母親以外の女性と不倫関係になった挙げ句、母親と離婚して、家を出ていた。父親を取り戻したいという無意識の思いが、こうした虚言となったものと理解できる。

接し方のコツ

仮面を無理に剥ぐな

演技性パーソナリティ障害の場合、二つの接し方があるだろう。
彼の、あるいは彼女の演じる仮面、嘘を観客として賞賛し、当人の期待する反応を示す路線と、当人の仮面や嘘に、嫌気が差して、その人を遠ざける路線である。仮面や嘘の欺瞞性、虚偽性を暴こうとすれば、たちまちその人とは絶交状態になり、あなたは、最悪の人間として、悪評を振りまかれるだろう。その人の言葉を真に受けてしまう人も多いので、あなたは、たちまちひどい人にされたりしる。パーソナリティ障害の者を敵に回すと、常識的な人間のほうが負けてしまうのである。
したがって、本人との関係を維持するためには、その演技や嘘に気づいても、それを面と向かって指摘しないのが原則だ。
しかし、本人ともう一歩踏み込んだ関係を築いたり、今後のあなたとの関係を真実なものにするためには、次の点に注意して振舞ってほしい。
嘘や演技的な態度によって、当人の望むままに振り回されないことである。あなたが、その人の庇護者として行動を起こしたりすれば、とんでもないことになるばかりか、その人の病的傾向を強化してしまう。
例えば、よくあることだが、このタイプの人は被害者を演じることがある。友達からひどいことをいわれたくらいは序の口で、わいせつ行為をされたとか、暴力を振るわれた、大金を盗られたという訴えをすることもある。
これを真に受けて、相手のところに怒鳴り込んだりすると、困ったことが起きる。だが時には、秋田のケースのように、警察さえ騙されて無実の市民が極悪人に仕立て上げられるということも起こってくる。
嘘や演技的な態度より、当人に、メリットや満足ばかりを与えることがないように、注意深く配慮しなければならない。それには、まずその性質を知っておくことが出発点で、こうした可能性を念頭に起き、冷静に対処することだ。その場合も、本人を咎めるのではなく、行動の裏にある意味のほうに注意を向け、それをもっと健全な形で満たすようにすることである。たいていは、愛情と関心を求める行為であるから、その点を汲むように心掛けて、根気よく接していけば、その人も次第に変わっていくだろう。嘘の部分でつながらずに、その背後にある寂しさに目を注ぐことである。
他の部分で、必要な関心が払われ、その人の気持ちが汲み取られるようになると、嘘も影を潜めることが多い。

身体化症状とどう付き合うか

演技性パーソナリティ障害の人に援助する場合、しばしば問題になるのは、パニック障害やさまざまな心因性の身体症状にどう対処するかという問題である。演技性パーソナリティ障害では、その性質上、身体表現症状が高頻度に出現しやすい。
頭痛やめまい、体の痺れ、腹痛といったものから、痙攣を起こしたり、意識を失ったり、歩けなくなったりといった症状にびっくりして、検査をするが、特に異常はないという、身体表現性障害(かつてヒステリーと呼ばれた)が合併しやすいのだ。
周囲は、こうした身体症状に振り回され、いいたいことも抑えて生活するようになる。腹の中では、すぐに病気のせいにしてと、苦々しく思いながらも、そのことをいうと余計症状がひどくなるので、黙っているということが多い。
身体化症状には、二段階の対処が必要だろう。
最初の段階としては、こうした症状化は、休息や愛情を求めるサインなので、とりあえず休息させることである。気持ちの問題で病気ではないと、頭から否定することは禁物である。その場合、大事なのは、甘やかしたり気ままにさせるのではないく、「具合が悪くて休んでいる」というタテマエを守らせ、一日中寝床で何もさせないとか、行動の制限をきちんと求めることである。こうした対処で、身体化は自然に影を潜めることが多い。
万が一、こうした症状が繰り返される場合、援助者が振り回されず、自分でできるだけ対処させるようにすることが、悪循環を断ち切る上で大事だ。例えば、過呼吸発作であれば、自分で紙袋呼吸をすることにし、周囲はやきもきしない。最初は、本人も不安に圧倒されて大騒ぎしやすいが、自分で対処を覚えると、その自信が、回復のきっかけになる。仕事や学校を休むのであればその手続きも自分でさせるようにしたほうがいい。自分で始末をつけれるようになることが、回復のスタートになる。
それと同時に、身体化症状とは、別の部分で関わりを持ち、本人の関心への欲求を満たすことである。症状が出たときは、そうした関わりはお預けにすると効果的である。
克服のポイント

自分自身と対話する時間

演技性パーソナリティ障害の人の特徴は、外面的なことや、他者の気持ちのほうにばかり関心が注がれ、自身の内面や気持ちがおろそかにされがちだということである。演技性パーソナリティ障害の人は、つい周囲の気持ちに合わせて反応したり、振舞ってしまう。皆を楽しませ、皆に愛されることで、自分を保とうとするのだ。それが、うまくできないと、とても不安になったり、落ち込んでしまう。
そういう生活を、子供の頃からずっと続けているため、自分の本当の気持ちというものを、ほとんど省みなくなっている。自分の気持ちに向かい合おうとすると、空虚な気持ちや寂しさに襲われそうで、ついもっと楽しくて刺激的な、人との関係や外面的なことに注意を逸らしてしまうのだ。
だが、そうした生活は、余計心の中を希薄にしてしまう。
演技性パーソナリティ障害を、克服するよい方法は、自分と向かい合う時間を積極的に持つ練習をすることだ。一人だと気分が沈みがちになるかもしれないが、それは、自分と向かい合えている証拠なのだ。自分自身と対話する時間を持ち、内省的な習慣をつけることで、自分の人格がどんどん形骸化してしまうことを防げる。
日記をつけたり、読書をしたり、植物や小動物の世話をするのもよいだろう。ポイントは、一人で自分のために過ごす時間を持つことだ。そうした時間を、楽しむことができるようになれば、精神的なバランスはかなり回復しているといえるだろう。
外からの刺激ではない、自分自身の中に湧いてくる刺激を大切にしよう。

石の上にも三年

前の項目にも書いたように、演技性パーソナリティ障害の人は、新しい刺激を外に次々と求めてしまいがちだ。遊園地で遊ぶように、対人関係や仕事においても、新しい刺激や興奮を求めてしまう。楽しくないと、悲しくなってしまったり、つまらなくなってしまうという中間のない気分の動きが、演技性パーソナリティ障害の人にもよく見られる。そこで、そんな落ち込みや空虚を避けるために、必死にハラハラドキドキを求めてしまう。
でも、真新しい刺激や興奮がなくても、人は幸せになれるのだ。何も起こらない平凡な時間を、大切にするように心掛けることで、心の感受性を高め、喜びを味わう力をつけるのだ。身近なものを大切にし、ささやかな習慣を、長続きさせるように心掛けよう。特別なことをするのではなく、ありふれたことを続けることが、このタイプの人にもっとも不足している力を育んでくれる。
ありふれたことに楽しみを見出せるためには、仕事であれ、人であれ、中身のあるものと長くつながることがポイントになるだろう。

中身のあるパートナーを選べ

演技性パーソナリティの人は、概して波瀾に富んだ恋愛遍歴を重ねる。それは、ある意味で、このタイプの人の本性のようなものなのかもしれない。そうすることで、自分を保っているのである。逆に、このタイプの人が、落ち着いて子育てに専念したり、マイホーム・パパを演じ始めると、後で、反動が来ることがある。このタイプの人は、家庭というカゴに無理やり自分を閉じ込めてしまうと、うつ状態になってしまうこともある。いわゆる、カゴの鳥症候群だ。ある程度、ヒヤヒヤするような刺激がないと、光りの当たらない花のように、萎れてしまうのだ。他人の視線があって初めて、この人は輝くのである。
しかし、どこまでも、恋愛遍歴を重ね、遊牧民のような暮しを続けることは、他の多くの点でマイナスである。安らげる家庭にはならないだろうし、若い頃ならともかく、実を結ばないといけない時期に、まだ種を蒔いているというのでは、何事も中途半端に終わる恐れがある。アリとキリギリスの喩えででいうと、キリギリス的な人生になりかねない。やがては冬がやってくるのだ。心身ともに疲れて、仕事も落ち目になり、老後の蓄えをする暇もなく、晩年は悲惨ということになりかねない。
演技性パーソナリティの人が、最後に幸せをつかめるかどうかは、めぐり合えるパートナーにかかっているように思う。
その意味で、チャップリンの後半生は、とても幸せなものであった。チャップリンが数え切れない恋愛遍歴の後に、四番目の妻となる十七歳のウーナ・オニールに出会ったとき、チャップリンは五十を過ぎていた。ウーナは、有名な劇作家ユージン・オニールと離婚した妻との間にできた娘だった。
ウーナは、チャップリンとの間に三十四年間にわたる結婚生活を送り、八人の子供を生み育てた。ウーナとチャップリンの生活がすばらしい成功を収めたのは、互いに求めるものが、完全に一致していたということがあるだろう。ウーナは明らかに、偉大なる父親に代わる存在を、チャップリンに見出していた。一方、チャップリンは、初恋の相手であるhンリエッタ・ケリーという十五歳の少女に失恋して以来、あどけないといってもいい娘に執心し続けていた。
しかし、そうしたことだけでは、現実の生活の中で、失望を味わうのは必然だった。それまでの相手は、ただ世間知らずの美少女というだけで、教養や内面的な深みというものを持ち合わせていなかったからである。しかし、ウーナは違っていた。内気なところもあったウーナは、、美貌だけでなく、豊かな内面性や鋭い批判眼を兼ね備えていた。チャップリンの最高の観客であり、インスピレーションの源泉となり続けることができたのである。
ちなみに、ここで取り上げたマーロン・ブランドは、三度結婚したが三度離婚した。老齢に入ってから長男が殺人事件を起こし、次女が自殺するという不幸が続いている。ココ・シャネルの晩年は、孤独であった。彼女が亡くなったのは、彼女がパリに出てきたとき、金持ちの御曹司に囲われていたという、同じホテル・リッツだった。