どうしよう?

推奨されたのではてなダイアリーからインポートした

第1章 パーソナリティ障害とは何か

行きすぎた考え方や行動の偏り

パーソナリティ障害は、一言でいえば、偏った考え方や行動パターンのため、家庭生活や社会生活に支障をきたした状態と言える。
「パーソナリティ障害」の前進である「精神病質」という概念を完成させた、ドイツの精神病理学者クルト・シュナイダーは、「性格の偏りのために、自分で苦しんだり、周囲を苦しめるもの」という定義を行った。減税の「パーソナリティ障害」の概念も、基本的にはそれを継承しているといえる。米国精神医学会の最新の診断基準であるDSM−Ⅳでは、「著しく偏った、内的体験および行動の持続的様式」とされる(パーソナリティ障害の全般的診断基準」(1)参照)。
物事の受け止め方や行動の仕方には、当然個人差があって、ある程度までは「個性」や「性格」として尊重されるべきものである。プライドの高い人。世間体を気にする人。すぐに人を信じてしまう人。融通の利かない人。一人のほうが気楽な人。そうした傾向は、人それぞれであり、いいとか悪いとかということではない。
ただ、こうした傾向も度が過ぎると、ちょっと困る場合が出てくる。例えば、プライドを持つことは大切だが、プライドが高すぎて、他人から欠点を指摘されることが許せない人がいる。親切で教えてくれていても、貶されたと受け取ってしまい、怒り出してしまったりする。こういう人は、人に訊ねたり、教えてもらうということが苦手である。そのため、とんでもない失敗をしたり、せっかくの能力が活かせないということにもなりやすい。
それとは反対に、自信がなくて、自分を無能だと思い込んでいる人がいる。本当はたくさん長所があるのに、自分は人より劣っていると信じ込んでいるのだ。こういう人は、自分の能力を半分も発揮できない。しかも、自信たっぷりな人を見ると、それだけで圧倒されてしまい、崇拝さえしてしまう。時には、自分の人生を投げ打って、自信たっぷりな人の言いなりになってしまうこともある。客観的な目で見れば、その人のほうが、崇拝している相手より優れているのに、ただ自信がないばかりに、自分を低く扱ってしまうのである。
それでも、本人がそれでよければいいではないかということになるのだが、たいてい本人だけの問題ですまなくなる。
プライドの高すぎる人の場合でいえば、みんなが協調して仕事をしないといけない場に、こういうタイプの人がいると、周囲はかなりやりずらい。ましてや、上司やトップがこういう人物だと、部下はたいていやる気をなくす。部下の自主性よりも、ボスの気まぐれな好みや判断が絶対となるからだ。本人は自身の問題に気づかないので、なおのこと周囲は困ってしまうである。
では、逆の自信欠乏の場合なら、さほど周囲に害はなかろうと思うかもしれないが、そうとも限らないのだ。この場合、自分に自信がないのを補おうとして、人に救いを求めようとする。一人の人物に依存したり、従属する場合もあるが、集団で寄り集まる場合もある。自分の意志を持たない分、危なっかしいことも起こる。
後でも述べるが、暴走族とか犯罪集団とか新興宗教の周辺には、こういう問題を抱えている人々が集まって、輪を大きくしているという現実がある。いったん暴走し始めると、一見自信のない、虫も殺さないような人が、日頃のコンプレックスゆえに、おぞましい行為を平気でやってしまうことがある。
いずれにしろ、まず、ここまでで押さえておいてほしいのは、パーソナリティ障害とは、バランスの問題であり、ある傾向が極端になることに問題があるということである。パーソナリティ障害かどうかのポイントは、本人あるいは周囲が、そうした偏った考え方や行動でかなり困っているかどうかということである。ただし、本人は案外困っていないことも少なくないので、いっそう周囲は困ることになうr。
また、そうした傾向が青年期もしくは成人早期には始まっていて、薬物や他の精神疾患の影響で生じたものでないことも診断の要件となる。

パーソナリティ障害に共通する特徴

パーソナリティ障害と一口にいっても、先の例が示す通り、全く正反対の特徴を備えていることもある。多くがタイプであって、それぞれに違った特徴がある。第二部で詳しくみていくが、DSM−Ⅳの診断基準に挙げられているものだけで、十のタイプが記載されている。
しかし、パーソナリティ障害は、ただ「著しく偏った」というだけの、それぞれ別個ばらばらのものかというと、そうではない。パーソナリティ障害全般に通じるもっと根本的な共通点があって、それを知ることは、健全なパーソナリティと不健全なパーソナリティ障害を見分ける眼力を持つことになるし、また診断基準が教えてくれないパーソナリティ障害の本質を理解することにもつながる。
まず、パーソナリティ障害の人の特徴は、「自分に強いこだわりを持っている」ということである。口に出していうかいわないかは別にして、パーソナリティ障害の人は、自分に囚われている。それが、すばらしい理想的な自分であれ、みすぼらしく劣等感にまみれた自分であれ、自分という強迫観念から逃れられないのだ。自分についてばかり語りたがる人も、自分の事を決して他人に打ち明けない人も、どちらも、自分へのこだわりという点では同じである。
もう一つの共通する特徴は「とても傷つきやすい」ということである。健康なパーソナリティの人には、何でもない一言や些細な素振りさえ、パーソナリティ障害の人を深く傷つける。軽い冗談のつもりの一言を、ひどい侮辱と受け取ってしまったり、無意味な咳払いや、雨戸を閉める音にさえ、悪意を感じて傷つくこともある。
この二つの特徴は、現実の対人関係の中で、もう一つの重要な共通点となって現れる。つまり、「対等で信頼し合った人間関係を築くことの障害」である。それは、されに、愛すること、信じることの障害にもつながる。どのタイプのパーソナリティ障害でも、愛し下手という問題を抱えている。尽くす愛、溺れる愛、貪る愛、押しつける愛、試す愛、愛せない愛……そのタイプはさまざまだが、愛の歪みやバランスの悪さが、当人を、あるいはパートナーや家族を、安定した幸せから遠ざけるという点では、同じである。
以上の目安がそろっていれば、そこにはパーソナリティ障害が存在していると考えて、ぼぼ間違いないだろう。

自己愛の病としての側面

上に述べたパーソナリティ障害の特徴、つまり、自分へのこだわりと傷つきやすさ、そして信頼したり、愛することの障害は、パーソナリティ障害が自己愛の障害であることに由来している。
自己愛とは何だろう。簡単にいってしまえば、自分を大切にできる能力である。それは、人間が生きていく上で、もっとも基本的な能力である。この能力が、きちんと育っているから、人は少々厭なことがあっても、すぐに命を絶ったり、絶望しないで生き続けることができるのだ。
不幸にして、この自己愛が適切に育っていないと、自分を大切にすることができない。ひどい場合には、些細なことで、自分を傷つけたり、時には命を絶ってしまうということが起こる。健康な自己愛に恵まれた人には、こうした行動をとることが、全く理解できない。わざとらしい行為という見方でしか受け取られない事も多い。だが、重い自己愛の障害を抱えている人にとっては、生き続けることは、大変な試練と苦行の連続なのである。
こうした強い自己否定感は、境界性パーソナリティ障害として知られるタイプに典型的に認められるが、それは、まさに自己愛が損なわれていることから来ている。逆に弱さや傷つきやすさを補おうと、自己愛が過剰に肥大している場合もある。自己愛性パーソナリティ障害と呼ばれるものだ。
境界性パーソナリティ障害が、自己愛の病理を抱えていることを、最初に指摘したのは、ボーダーライン治療のパイオニアでもあったマスターソンである。マスターソンは、境界性パーソナル障害と自己愛性パーソナリティ障害が、自己愛の障害の表裏の両面であり、競争に勝ち抜き、自信たっぷりに振舞う「自己愛型防御」の成功と破綻によって、いずれの側にも移行しうることを示した。
その後、さまざまなタイプのパーソナリティ障害に対する治療の試みが広がるにつれて、その根底に自己愛の病理が指摘されるようになった。多様なパーソナリティ障害のタイプは、傷つきやすい自己愛のさまざまな防御の形態として、理解することもできる。また、その防御が崩れたとき、どのタイプのパーソナリティ障害も、境界性パーソナリティ障害の様相を帯びるのである。

生きづらさを補う適応戦略

パーソナリティ障害の人は、前項で述べたように、傷つきやすい自己愛に由来する生きづらさの中で暮している。それは、本人が自覚する、しないにかかわらず、本人や周囲の生活、人生に困難をもたらす。だが、どんな状況でも、人は生きねばならない。人は、本来、どういう環境にあろうと、死ぬ瞬間まで生き抜くように作られているのである。生きようとす命の力と、抱えている生きづらさは、せめぎ合いながら、その人特有の適応パターンを織り成していく。つまり、パーソナリティ障害とは、生きづらさを補うための適応戦略だともいえる。
離陸した早々に、片羽根が傷ついたからといって、人間は飛ぶのをやめる訳にはいかない。傷ついた片羽根を抱えながら、飛び続けるための必死の努力を対処の結果を生み出されたものが、少し変わった飛び方であり、パーソナリティ障害の人の認知と行動のスタイルなのだ。何不自由なく飛んでいる者から見れば、それは、少し奇異で、大げさで、危なっかしく、不安定に思えるだとう。ひどく傍迷惑なものとして受け止められる場合もある。だが、少々変わった、度の過ぎた振舞いには、その人が抱えている生きずらさが反映されているのであり、傷ついた片羽根で、必死に飛び続けてきた結果なのである。
こうした考え方は、アーロン・ベックによって創始された認知療法の捉え方でもある。認知療法では、人それぞれが、これまでの体験の中で発達させた認知(物事の受け止め方)や行動の様式をスキーマと呼ぶ。例えば、演技性パーソナリティ障害の人は、「人から注目されなければ、私は無価値になる」という「信念」を持ち、その偏った信念に基づいて、誰かれかまわず、気を引くような行動をとったり、貴族の末裔であるという話を、まことしやかに、でっち上げたりしてしまうのである。
こうした誤った生存戦略は、まだ幼かった頃、満たされなかった欲求を、紛らわすために不適切にも身につけてしまったものなのである。
パーソナリティ障害の人は、たいていどこか子供っぽい印象を与えることが多い。それは、彼らが子供時代の課題を乗り越えておらず、大人になっても、子供のような行動をとってしまうためである。人はそれぞれの段階の欲求を十分に満たし、成し遂げるべき課題を達成して、はじめて次の段階に進めるのである。パーソナリティ障害の人は、その意味で、いまだに子供時代を終えていないともいえるだろう。

優れた点も

パーソナリティ障害の人が発達させる必死の適応戦略は、一風変わった、その人独特の認識やライフスタイルを生み出していく。この極端さは、別の見方をすれば、すぐれて「個性的」だと捉えることもできる。パーソナリティ障害の人は、幼い頃から抱える生きづらさを必死に補おうとして、特別の能力を身につけ、磨きをかけていく。ハンディを持つがゆえの、代償性過剰発達が起こりやすいのである。それが、適材適所のチャンスに恵まれれば、一つの才能として開花することもある。
適応の戦略はさまざまでも、それゆえ、発達させる能力も、各タイプによって異なるのだが、例えばあるタイプに見られるのは表現する能力であり、対人関係を繰る能力である。
ハンディを負いながら生き抜いていくには、どうしても他者の力を借りることが、生存戦略上、欠かせない。他人には庇護や応援を求めることが必要なのである。そのために、しばしば他人の心を動かす不思議な能力を発達させるのである。
児童相談所で働く方から、こんな話を聞いたことがある。虐待を受けている乳幼児は、まだ物心もついていないのに、職員に愛想笑いをするというのだ。もう少し年齢が上がると反応はより複雑になるものの、不遇な境遇に育った子供たちと接するとき、私も何か惹きつけられるものを感じる。幸乏しい養育環境に置かれた子供は、その状況の悲惨さとは裏腹に、こちらの心をくすぐる何かを放っている。それは、たっぷりの愛情と保護を与えられた子供の満ち足りた輝きとは異なる、別の不思議なオーラだ。
それは、とてもネガティブな感情を引き起こすこともあるのだが、そうした部分さえ含めて、やはり何かをしなければと、日頃の仕事に擦り切れかけた保護本能を掻き立てるものを持っている。
私はいろんな人たちの自伝や評伝を読むのが好きで、ジャンルを問わずに、さまざまな人生の物語に接してきた。そうした中で、人の心を揺さぶる、傑出した能力を持つ者は、しばしば、恵まれない幼年時代や屈折した子供時代を過ごしていることを知った。彼らが後年の人生で発揮する能力は、生きづらさを抱え、生き残りを賭けた日々の戦いの中で、知らず知らずのうちに、発達させたものといえる。
こうした能力を活かすことは、彼らが生き延びていく上で欠かせない。しかし、同時に注意も必要だ。しばしば、こうした能力を、自覚的、無自覚的に乱用して、その力に溺れ、他の能力を発達させることを怠ってしまう場合もあるのだ。その結果は、健全な自立ではなく、操作できる他者に依存したり、寄生することで終わってしまうことになりかねない。偏った能力ばかりを肥大させることは、多くの場合、幸福にはつながらないのである。
後にも述べるように、自立に向けた、バランスのとれた生きる力を身につけることが、大切なのである。