どうしよう?

推奨されたのではてなダイアリーからインポートした

第7章 信じられない人々――妄想性パーソナリティ障害

Kurilyn2004-07-16


特徴と背景

裏切りを恐れる

妄想性パーソナリティ障害の人は、人を心から信じることができない。このタイプの人は、親密な関係において、常に裏切られるのではないかという思いに駆られるため、適度な距離を置いて親しさを楽しむということができない。親しくなることは、彼にとっては、疑いを苦しみの始まりでもある。彼は親しい者を監視したいという衝動を覚えたり、常に親しい者の行動を把握しようとする。相手が困惑したり、関係から撤退しようとすると、彼の猜疑心は一気に燃え盛る。
妄想性パーソナリティ障害は、配偶者に対しても激しい猜疑心を向ける。いつかパートナーが裏切るに違いないという確信を持っていて、根拠のない薄い思い込みによって、不当な疑いを抱き続ける。詰問したり、その証拠を見つけようと躍起になる。配偶者が他の異性と少しでも親しくするだけで、疑惑と嫉妬の炎を燃やす。絶えず相手の所在や何をしているのかを確かめないと落ち着かない。配偶者が外出したり、同性の友人と会うことさえ嫌う。激しい家庭内暴力の原因となることも多い。時には、妻を他の男性と節食しないように家の中に閉じ込めたりすることもある。アルコール依存症が加わったりすると、この傾向は、一層激しくなることがある。飲酒者に多いインポテンツが、妻への嫉妬心をさらに激しくするのだ。
愛情と憎しみが極めて薄い壁で隔てられ、表裏一体になっているのも、妄想性パーソナリティ障害の特徴だ。人は信じられなくなると、オセローや『千夜一夜物語』に出てくるペルシャのスルタンのように、身近なものを害し、殺し始める。こうした習慣は、今も昔も変わっていない。痴情がもつれて、殺人事件に至るような場合、このタイプの人物が関与していることが多い。執拗なストーカーとなる場合がある。妄想性パーソナリティ障害は、一般人口の0.五〜二%にみられるとされ、境界性や自己愛性と比べても決して稀なものではない。
このパーソナリティの人は、孤独で傷つきやすく、優しさや愛情を示す者に対しても、最初はとても警戒的で、心を開くのに臆病である。だが、いったん心を開き始めると、相手の存在は、非常に特別なものとなる。彼の中の幼い誇大自己は賦活(ふかつ)され、相手が自分のためだけ存在するかのような思い込むに陥っていく。親切を好意と解釈し、恋愛妄想を膨らませていく場合もある。熱烈で、執拗な求愛が始まる。勝手な思い込みが、期待はずれな反応に裏切られると、今度は逆恨みへと向かう。彼の本性を知らずに交際を始めたりすれば、後で大変な思いをすることになる。
「殺すぞ」「火をつけるぞ」と脅され、本当に実行に移されてしまうこともある。
このタイプの人は、ねちっこく、執着傾向が強く、いっそう手ごわいストーカーになってしまう。
妄想性パーソナリティ障害の人のもう一つの重要な特徴は、その硬さと傷つきやすさである。このタイプの人は、表情にも物腰にも、考え方にも、特有の硬さがある。柔軟さが乏しく、冗談も通じにくい。些細なことでも攻撃と受け取り、名誉を傷つけられたと感じ、激しい怒りを感じる。現状とかけ離れた高いプライドを持ち、正当な指摘であっても、それを貶された、馬鹿にされたと受け取り、恨みを執念深く抱き続ける。
このパーソナリティ障害を持つ人は、必ず人生のどこかの段階で、彼の歪んだ世界認識の原点となる体験をしている。その体験が、その人の心に、他人というものの恐ろしさと信用できなさを刻み込んだのだ。
彼らは、人との信頼関係や愛情を信じられないため、人を権力や力で支配しようとする。このパーソナリティ障害の人は、権謀術数を繰ることに強い興味を持つ。階級や位というものに関心を持ち、人間の関係を心のつながりで理解するより、上下関係や力の関係で理解しようとする。
妄想性パーソナリティ障害は、しばしば気分の波を伴い、高揚して行動的になる時期と、行き消沈して反省的になる時期がある。うつ状態に陥ることもある。自分の妄想的な思いつきに囚われ、夢中になっているときは元気である。自分の思いつきが非現実的だと悟ると、抑うつ的となる。



妄想性パーソナリティ障害

他人の動機を悪意のあるものと解釈するといった、広範な不信と疑い深さが成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち4つ(またはそれ以上)によって示される

  1. 十分な根拠もないのに、他人が自分を利用する、危害を加える、またはだますという疑いをもつ
  2. 友人または仲間の誠実さや信頼を不当に疑い、それに心を奪われている
  3. 情報が自分に不利に用いられるという根拠のない恐れのために他人に秘密を打ち明けたがらない
  4. 悪意のない言葉や出来事の中に、自分をけなす、または脅す意味が隠されていると読む
  5. 恨みをいだき続ける。つまり、侮辱されたこと、傷つけられたこと、または軽蔑されたことを許さない
  6. 自分の性格または評判に対して他人にはわからないような攻撃を感じ取り、すぐに怒って反応する、または逆襲する
  7. 配偶者または性的伴侶の貞節に対して、繰り返し道理に合わない疑念を持つ

疑り深さと過度な秘密主義

妄想性パーソナリティ障害を疑う重要なポイントの一つは、過度な秘密主義ということである。妄想性パーソナリティ障害の人は、ごく当たり前の質問でも、自分のプライバシーや出自に関することには、非常に過敏に反応し、たいていはっきりとした答えを避ける。
曖昧な言いまわしに終始したり、なぜ、そんなことを聞くのかと、逆に質問したりする。
自分の過去や個人的なことについても、「忘れた」とか「さあ、どうでしたかね」などと覚えていないふりをしたりする。うちと外に関して、口にすべきことと、沈黙すべきことの関して、神経質である。
営業マンやテレフォンアポインターの人は、妄想性パーソナリティ障害の人の自宅を訊ねたり、電話をかけると、ひどい目に遭うことがある。なぜ、自分が訪問や電話の対象になったのかに関して、プライバシーが侵害されのではないかという疑惑と憤りを、ぶつけられることになりかねない。逆に、お宅は何物であるのかということを、細々と質問されて、セールスマンやテレアポアルバイターは、ほうほうの体で退散することになうr。
スターリンヒトラーが、徹底して自分の過去を改竄(かいざん)したり、封印したことはよく知られているが、それは、妄想性パーソナリティ障害にありがちな特徴でもある。
民主主義というものが、いろいろ欠点を宿しながらも、非常に優れている一つの点は、権力者の妄想性パーソナリティに対して、チェック機能を果すということである。
表現の自由報道の自由は、権力者の妄想性パーソナリティに対して、破壊的な作用を及ぼす。内情や秘密が暴露されることは、情報統制によって神話を生み、求心力を維持することを困難にするのだ。カリスマは登場するたびに、馬脚を暴かれて、消滅していく。

権力者の病

妄想性パーソナリティ障害は、古代ローマの昔から、独裁者に多い病でもある。絶対権力を手にした万能感と、いつ裏切り者によって権力の座を奪われるかもしれないという不安が、独裁者の心を蝕んでいく。
ネロのような古代ローマの帝王から、ロベスピエールクロムウェルといった恐怖政治家、さらには、最近のスターリンフセインといった独裁者まで、共通するパーソナリティの構造が認められるのである。秘密警察の暗躍や裏切り者の粛清は、独裁者の死か失脚まで続く。
これは、一国の独裁者にだけいえることではない。ワンマン型の多くの経営者や管理職の人も陥りやすいワナだ。
自分の地位と権力を守ることが、第一関心事であるため、部下も心から信用できない。背信がないか、敵方に走ったり、将来のライバルにならないか、不安を抱いている。したがって、部下を見るのは、部下の仕事ぶりではなく、どれだけ忠義に励んでいるかという点になる。部下が建設的な意見を述べようが、その採否は、意見の中身ではなく、自分の意向を汲んでいるかどうかで決まる。そうなると、やる気のある人材は去り、無能で、おべっか使いのイエスマンだけが残る。
偉くなって、管理職になると人柄が変わってしまう人がいる。自己保身に汲々とする余り、疑り深い思考ばかりが発達し、仕事の中身よりも、自分が失脚したり、責任を取らされることばかりを恐れて、その防御に腐心するのである。
そうした人物を上司に持つと、部下は最悪である。生産的な改革や向上ではなく、欠点やアラ探しばかりになってしまうのだ。部下も守りを固め、新しい試みに臆病になってしまう。人望がないにもかかわらず、減点法で採点すると、こういう人物は、ボロを出さないので、しぶとく出世したりする。
政治や経営の世界だけでなく、チェック機能を欠くあらゆる集団には、その危険がつきまとう。新興宗教やカルトも、教祖が妄想性パーソナリティ障害を有している場合が少なくない。教祖の妄想信念に引きずられ、手段自殺に至ったり、オウム真理教の事件のように、反社会的な暴挙に走ることもある。

父親殺しと反権力

男の子にとって、父親は永遠のライバルである。母親を父親から奪って自分のものにしたいという欲望は、タブーとして抑圧されるが、無意識の中にエディプス・コンプレックスとして残ると、フロイトは考えてた。フロイトは、ハンスという五歳になる恐怖症の少年の精神分析から、この仮説を導き出したのだが(フロイトによれば、ハンス少年は、母親に対する愛ゆえに、父親からペニスを切り取られるのではないかと恐れていた)、仮に、恐怖症などの神経症が、抑圧されたエディプス・コンプレックスによって引き起こされたとすると、この欲動が抑圧されずに、「父親」との戦いを生涯引きずるのが、妄想性パーソナリティ障害といえるかもしれない。
実際、妄想性パーソナリティ障害の人では、「父親殺し」のテーマが人生を支配していることが少なくない。中には、あからさまに、父親への殺意を口にする者も居るが、多くは、もっと巧妙に昇華され、父親への戦いは、権力や迫害者との戦いに置き換えられる。
スターリンの父親は、飲んだくれの靴職人で、酔っ払っては、妻や息子に暴力を振るう男だった。あるときは、力任せに息子を床に叩きつけたため、何日も血尿が止まらなかった。ぶたれて育ったスターリンは、反抗的で、乱暴で、冷酷で、強情な性格を示し始めていた。少年時代から、ボクシングに熱中し、彼の「殴り」好きは生涯続いた。母親は彼に司祭になってほしかったが、彼は神への信仰を捨て、無心論者として、革命家への道を突き進んでいった。当時、彼が愛読したのは、グルジアの作家カズベキの作品『父親殺し』だった。その主人公コーバの名は、彼の革命家としての変名となった。
スターリンが、連合国側として、崩壊に追い込んだナチス・ドイツを率いるヒトラーも、妄想性パーソナリティ障害の特徴を示す独裁者であった。ヒトラーも、極度な秘密主義と強い猜疑心を示し、知りすぎた者には、容赦のない粛清を行った。反ユダヤ主義を揚げ、何百万ものユダヤ人の大量虐殺を行ったことは、妄想性パーソナリティ障害の人が抱く妄想信念に基づくものであったと考えると納得がいく。それは、オウム真理教の麻原影晃が、ハルマゲドンを実行しようとして、地下鉄にサリンを撒いた行動の背景にあるものでもある。
彼らに限らず、大量殺人者では、妄想信念(あるいは、妄想)が、殺意を生んでいることが多い。いったん思い込むと修正が利きにくいのも特徴である。思ってもみないような事件を起こしたりするのも、この妄想信念に基づいて行動した結果であることが多い。

接し方のコツ

親密になるリスク

妄想性パーソナリティ窓外の人と付き合う場合、重要なことは、みだりに親しくなりすぎないことである。親しくなっても、ほどよい距離を忘れてはいけない。
親しくなって、心を許した素振りを見せることが、その後の災厄を招くのである。
このパーソナリティの人物は、とてもエネルギッシュで、頼りになるため、また最初はとても親切に力を貸してくれるため、つい頼りにしてしまったりすることも多い。
しかし、深く付き合うにつれて、逆に今度は精神的に頼られるようになる。
彼自身はとても孤独だからである。身近にいる人間は信じられないが、出会って間がない中立的な人物には、かえって心を許したりする。
ところが、そこで調子に乗って、親身になりすぎたり、個人的な付き合いを発展させると、後でどんでもないしっぺ返しが待っている場合がある。
何か些細なことであれ、彼にとって不利益なことが生じた途端、蜜月状態だった関係は終わりを告げ、猜疑と怒りの日々が訪れるのである。
このタイプの人と接する場合の重要な点は、深い感情移入を避けることである。親身になって接すると、相手を信じられない心が、逆説的な反応を起こしていく。つまり、他人など信じられないという彼の確信を証明しようとして、無理な要求を持ち出してくるのだ。それを、拒否すると、彼は、それを裏切りと受け止め、少しでも心を許したことを、あたかも欺かれたかのように感じ、激しい怒りと復讐心を募らせる。
こちらは、そういうつもりではないのに、気がついたら恋人のように錯覚して、肉体関係や結婚を迫られるということも起こる。それで、拒絶しようものなら、彼の猜疑心と屈辱感に火がつくことになる。

正面衝突は回避せよ

心の中を打ち明けるような関係になったら最後、こじれたときが怖いのが、この妄想性パーソナリティ障害である。
もし彼から、経済的な利得を得ていたりすれば、間違いなく、すべての返還を要求されるだろう。恐らくそれだけではすまない。彼はあなたのものを根こそぎ奪い取ろうとするだろう。訴訟は避けられないかもしれない。
彼にとっては訴訟など朝飯前のラジオ体操のようなもので、あなたにとっては、寿命を縮める出来事でも、彼には活力源となるのだ。最悪の場合、命を付け狙われることになる。
そうした状況に立ち至ったら、下手に言い訳したり、彼と議論して説得しようなどとは思わないほうがいい。ましてや、戦おうとは思わないことだ。彼と互角の戦いができるのは、国家権力だけだ。
あなたが、普通の庶民なら、頭を下げて、許しを請うのが身のためだ。
妄想性パーソナリティ障害の人は、恭順の意思をはっきりと示した者には、寛大な一面を持っている。怒りを爆発させ、それにじっと耐えているうちに、風向きが変わることはありうる。ただし、それが組織的な妄想性集団となると、話は別である。そこでは、個人を超えた集団心理が働き、余計歯止めを失うことになりやすく、極めて危険である。
法的な権力しか立ち向かうことはできない。無力な個人は、さっさと係わり合いを避けて、法権力に助けを求めることだ。国や行政は、こうした存在の性質を熟知した上で、国民を守ることが求められる。

権力ゲームに撒き込まれない

仮に身近にそういう人物がいて、関わり合いを、今さら避けられない場合もあるだろう。もちろん急に冷ややかな態度をとったりすれば、かえって危険だ。彼の猜疑心に点火してしまう。
賢明な方策は、のらりくらりと中立的な立場を維持し、彼にとって目立たない存在であり続けることだ。
間違っても、彼を諌めようなどと思ってはいけない。彼を諌めることができる人物がいるとしたら、全く中立的な第三者で、余程、彼の性質を知った者でなければ至難の業だ。
では救いはないのかというと、必ずしもそうではない。
パラノイックなエネルギーというのは、反対者や抵抗勢力がなくなると、案外萎んでしまうのだ。また、彼自身のバイオリズムの変化により、燃え上がったり、下火になったりと波を伴っている。季節的なサーカディアンリズムに同期して、変動することもある。これまでの彼の傾向をよく振り返ってみれば、それは自ずと掴めることだ。
そういう時期は、特に用心して付き合い、決して彼の言葉を打ち消すような言い回しは使わないことだ。黙ってほうっておくうちに、流れががらっと変わるということは起こりうる。
間違っても、正面きって否定をしたり、戦う意志を示さないことだ。それは、まさに彼の病的なスイッチを入れてしまう行為である。そうなってしまったら、あなたが戦う相手は、単なる一個の人間ではなくなる。疲れを知らない病的なエネルギーを消耗戦を繰り広げることになるのだ。あなたが、まともな人間なら、あなたが負けるのは避けられない。


家族やセラピストとして接する場合、まず守ることは、彼との権力ゲームに巻き込まれないことだ。どちらが支配力を持った存在であるかを競い出す関係になれば、愛情や治療ではなく、戦いになってしまう。競ったり、戦うつもりはないことを、はっきりいう必要がある。
妄想性パーソナリティ障害の根元には、父親を求める気持ちがある。父親は強く、びくともしない存在でなければならない。当人の揺さぶりに対して、慌てることはもっともいけないことだ。毅然とした態度で、威厳を失わない接し方が大切である。謝罪するときも、弱さを見せる態度ではなく、堂々とした態度で誠実に謝ることだろう。
逃げ腰になって背中を見せることは、危険である。当人を失望させるような振舞いは、逆に当人を逆上させる。

克服のポイント

人の心は支配できない

このパーソナリティ障害の人の不幸は、人を信じることができないところから生まれている。そのために、力や権力や強迫によって、相手を支配しようとする。だが、そうしたところで、相手の心を支配することはできない。相手を支配しようとすればするほど、心は反対に背いてくのだ。
心とはそういうものである。人の心を支配しようとは思わないことである。むしろ、相手の気持ちを尊重するように努めることだ。相手の気持ちを大切にすることができるようになれば、求めなくても、周囲から大切にされるようになるだろう。力や理屈でねじ伏せるのではなく、相手の気持ちに耳を傾け、それを尊重する勇気を持つことだ。

秩序と気配り能力を活かせ

このタイプの人が示す猜疑心や他人の行動の裏まで読み取ろうとする傾向は、同時に、このタイプの人が持つ他者の気持ちを敏感に察知し、気配りする」能力に通じる。余り親密でないニュートラルな関係では、こうした力がうまく活かされることも多い。
実際、このタイプの人は、交渉や政治的な駆け引きに長けていることがある。人間の気持ちを気持ちとしてではなく、相手の出方や戦術として理解することで、チェスでもするように、対人的な操作を行う能力を持っているのである。そうした傾向や能力をうまく活用して、弁護士などの法曹分野や役人、管理職、政治家やその参謀的な存在として、頭角を現すことも多い。
妄想性パーソナリティの人は、反権力的な傾向を示すこともあるが、同時に非常に権力志向的な一面を持っている。正反対に見える二つの傾向は、本来同じ傾向の違った表現なのである。「革命」と称するものが権力を手にすると、前権力以上に、権力的になるのは、このためである。こうした権力志向は、先にも書いたように、多くの場合、父親に愛されなかった、あるいは恐れていたことに由来している。愛という不確かで手に入らないものの代わりに、もっと信用の置けるものとして、秩序や階級、法というものに関心を示したり、そのした分野に活躍の場を見出すことも多い。このタイプの人は、非常に反抗的ともなりうるが、同時に、強い忠誠心を抱く。それは、父親を求める気持ちに由来している。この忠誠心は、仕える相手さえ間違わなければ、一つの長所、美点となり、厚い信頼を勝ちうる。その意味でも、法律や政治的な分野に、適正を持つといえる。しかし、同時に、こうした適性や志向の背景にあるものを、当人も、人々も頭の片隅に置いておく必要がある。

戦いに勝つより、許す勇気を

このタイプの人は負けることが許せない。自分のプライドを傷つけられて、引き下がることができない。どんな手を使ってでも、戦いに勝とうとする。しかし、戦う人生は、結局不幸である。人を信じない人生は、孤独で、不毛だ。
中には、しばしば生涯の大部分を訴訟や諍いに明け暮れて過すこともある。齢九十に達しようというのに、些細な利害のために訴訟を繰り返す人がいたが、余り穏やかで、恵まれた晩年とは言い難かった。戦いは神経をすり減らし、心を憎しみでどす黒く染めていく。
もちろん自分の権利を主張し、守ることは大切だが、度が過ぎると、健康や精神を損なうこともあるのだ。戦いに勝つことよりも、許すことが、本当の勇気かもしれない。